バーおやかんものがたり
スクールの構内を歩いていると、ヘンな張り紙があった。本日開店、とは読めるものの、何の張り紙なのか今ひとつわからない。手前に女が二人いて、グラス持ってるから多分飲み屋かなにかの宣伝だろうが…。
時期は…最高学年ならそろそろ卒業研究をまとめはじめなきゃならない時期で…。とはいえ俺はまた無理かなぁと半ばあきらめかけているんであって。張り紙を見てくすくす笑って通り過ぎる下級生らしい女がうらやましいと、本気で考えていたりする。ま、要するに、スクールにおける、出られない人間なわけだ、俺は。
もはや出る授業も無いくらいスクールの最高学年をやってるんだが、スクールに来なくなってそのまま退学扱いってのも嫌なので、ひとつは授業を取っている。そのたった一つの授業が終わって、煙草に火をつけた。
「…むいてねぇのかなぁ。…夢では…あったんだけど」
入ったら出られない、というのは最初からわかっている。わかっている人間がここを選ぶ。当然、自分は出られると確信して。でも、ほんの一握りだ。友人たちの多くはまだ居座ってたりする。
ぼんやりと歩いていると、昨日張り紙をみた場所が人だかりだ。何気なく行ってみると…増えまくってた。
「…あ？誰だよこんなに張った奴…」
煙草をおとしそうになるくらいあっけに取られたが、こうなると気になるのが人情ってもんだ。一枚を引き剥がし、じっと見る。良く見れば下の方に『バーおやかん』と署名があった。
「…おやかん？」
まぁ、店の名前ってのは変なのが多くて、正気を疑うようなものも多い。実際床屋で熱血カットとか見た日には逃げ出した。そんなもんに比べりゃいいほうだろう。けれども、このやかんというものに関してはスクールの伝説というか言い伝えというか、そういう奇妙なものが付随していた。空に浮かぶやかんをみただとか、やかんで旧校舎が壊されたとか、そういうの。バカらしいとずっと思っているが、その手の伝説はどこの学校にだってあるだろうと思い気にしていない。
ともあれこのバー、こんな妙な張り紙をするくらいなら、変なところなのは間違いないだろう。久しぶりに俺の好奇心が湧いてきた。
表通りはもちろん裏通り。路地の隅まで歩きとおして一言。
「住所くらいかけっ！」
そう。連絡先などの重要情報が、あの張り紙には欠けていた。だったら探すことも無いだろうと思うが、俺はそういう奴だ。スクールに張り紙があったということは、この近くであることには間違いないだろうし。絶対に見つけ出してやる。そんな妙な決心を固めつつあったころ、それらしき建物を発見した。
重厚な木材のドアを押し開けると、そこはすでに人外魔境とでも言えばいいだろうか。単に酔っ払いの巣窟になっていただけだが。
すでに撃沈してカウンターで死んでる奴。ご丁寧に毛布がかかっているのに笑った。
カップルで来ていて、ほろ酔いですでに自分たちの世界を完全に構築してる奴ら。
なぜかわからないし理解もしたくないが、ゴミ袋に詰め込まれて目を回してる奴。
ここまではまだいいだろう。いや、よくないかもしれない。とくに最後。だけど、そんなのを通り越してびびったのが、この惨状に目もくれず、顔色も変わらずにカウンターで飲んでいる女と、それの相手を、これまた店の中の具合など気にしないといった風にする白髪のバーテンの存在。他が異様なオーラを放っているだけに、別のバーならまともなはずのその二人が返って怖かった。
「いらっしゃい。だけど、悪いけれど煙草はうちは駄目だ。外で消してきてくれるか」
バーテンが俺に気がついてそんなことを言う。
「バーで煙草禁止？」
今まで結構いろんなところに飲みに行って、禁煙禁煙うるさいけどバーで禁煙を言い渡されたことは無い。そんなことを言外に込めながら聞き返す。
「うちの三か条のひとつだ。火気厳禁」
「火気…え？」
状況が飲めない。ぼんやりとしているうちに、突然水が顔にかかった。
「わっ」
「悪いが…勝手に消させてもらったよ。危ないから」
どうやって消したんだ？一瞬を思い出してみると、なにやら俺の顔の前を横切ったような気がする。
「危ないって…」
「うちで扱っている酒の問題だ。ほら」
言って自分の後ろの棚にある酒を示した。
「！」
噂には聞いたことがある。ストレートで飲むなんてことはありえない、かといってどんなに薄めてもキツイ。言うなれば生き物が手を出してはいけない、世界最強との名高い…。
「スピリタスがこんなに…」
「おや、知っていたのか。なら、火気厳禁の意味もわかるだろう？」
「ビンにまで書かれてるもんな」
「そういうことだな。で…何にする？」
カウンターに座った俺に向かって聞いてくるバーテン。良く見たら結構若い男だ。じゃあ白髪じゃなくて銀色だろうか。
「そうだなー。じゃあ俺好きなんだけど、ラストキッスで」
かなり強いカクテルで、そこが気に入っていたりする。ときどきいい女がいるとこいつを飲ませたりして…って、まぁそれはどうでもいいか。
ぼんやりと考えているうちにすっと出されたそれは確かにラストキッス。そっとひとくち飲むと…。
「ぎゃー！」
強い。強いなんてもんじゃない。いつもの5倍くらい強い。舌の先がひりひりする。
「おいおい、これはなんなんだよ！」
「ラストキッス。ただ…ラムじゃなくてスピを使っているが」
「なんで…げほっ…スピリタス…」
「売りだからな。うちは全てスピベースのカクテルだ」
「オリジナルもあるよ」
俺がカウンターに座ってから俺の様子をじっと見ていた女が口を挟んだ。
「オリジナルカクテル…？」
半ば恐れながら聞くと、指差した。その先にメニューがずらっとかかれている。一つ一つ聞いてみると、丁寧に説明してくれた。飲んでみてもいいかな、と思うのがいくつかある。ただ心配なのはやはりスピリタスベースだということだ。
「…まともなのは出来ないのか？」
「望みとあらば応えるのが私の仕事だ」
「よかった…さすがにスピリタスはキツすぎる…」
心底良かったと思ったのは久しぶりだ。そして、自分の好奇心を恨み始めていた。
まともなモスコミュールでほっとしていると、入り口付近から妙な声が聞こえてきた。
「へべへべ〜」
「ありゃ。マスター、また意識が戻ったみたい」
「そのようだな。まったく…あまりにもこれが続くようなら出入り禁止か」
「さっさとした方がいいんじゃない？倉の方にも被害でるかも」
「…善処するか」
半ばあきらめたような笑いを浮かべ、カウンターをわざわざ飛び越して声の方へ行った。音源は、ゴミ袋に詰め込まれている野郎だ。
「おいおい、それ…」
どうするのかと聴くまもなく外に持っていってしまった。
「全く…アレがこの国の有名博士だっていうんだから、嫌ねぇ」
「有名…？」
ため息をついた女の方に向き直る。
「あれっ？知らない？」
「知らないって言われても…しらないもんはしらないだろ？」
「あんた、スクールの学生でしょ？」
「そりゃそうだけどさ」
「時代のせいかなぁ…あいつのことを知らない学生の世代かぁ」
「で、誰なんだあのゴミ袋」
「カルサート＝フェイリアス。興味あるなら調べてみたらいいよ。一応有名人だから。別に私はあいつの宣伝担当じゃないし」
と、三千世界とかいうオリジナルカクテルをきゅーっとのみ干した。これもスピリタスベースのはずなのに、顔色も変わらない。半ばビビりながら俺もグラスに手を添える。
「…あんた、出られない組？」
「…関係ねぇだろ？」
「卒業研究が決まらないとか」
「関係ないだろってば」
いらいらしながらグラスを持ち上げるが、やはりいろいろ気になることがあるわけで、その手が僅かに止まる。
「後輩が悩んでるのに、横でヘラヘラ酒飲んでるわけにもいかないじゃない」
「…卒業…生？」
「うん。１７７期生。ちなみにこのバーにいる全員は現役組だったりする。あのゴミ袋だけは一年とどまってるけど、教授がいてくれ、っていっただけでそのまま出られたんじゃないかな」
「１７７…伝説の卒業生！」
「へ？そんなことになってるの？」
女は初耳だといわんばかりに目を見開いている。
「だって…現役組がそのほとんどを占めた脅威の学年だって、教授やらが口そろえて言ってたぜ」
「そうなんだ…」
女が驚いているすきにバーテンが戻ってきていた。いつ戻ってきていたのか、気配を感じさせない。
「あ、マスター追加お願い。えーとね、アップルランド物語で」
何も言わずに頷き手際よくだしてくる。
「それにしてもあいつの酒癖もどうにかして欲しいね、マスター。同じ弱いのなら、こっちみたいに寝るほうがまだまし」
と、隣で爆睡ぶっこいてる男の頭をぽんぽんと叩く。
「まぁあれが奴の存在理由のようなものだろう」
「傍迷惑？」
肩をすくめているが、その通りだ、と目が語っていた。実はこのバーテン、結構食わせ物かもしれないとふと思う。
メニューに少々難はあるが、雰囲気としてはいいバーだと思った。バーテンが客にそれ以上立ち入らない。俺の好みだ。
「…不安？」
突然隣から声をかけられて驚く。女が俺の方を見ていた。
「……」
じっと見つめられるなんて、三ヶ月前に振られた彼女以来だ。
「…聞くまでもないよね。当然不安だと思うよ」
柔和な顔になり、俺の肩を叩く。
「…長い間の夢だったんだ。原子の研究に携わりたいってさ。…でも…向いてないかなぁ…」
「……」
しばらく二人とも黙った。寝ている男の寝息と、後ろの方でカップルの笑い声が時々、そしてバーテンがコップを拭いている音しか聞こえない。
「大仕事の前ってね、みんな思うみたい。『自分はこの分野に向いてないなぁ』って。もちろん私も」
「…そんなもんなのか？」
「そんなもん。現に、学会前だとか論文書いてる最中だとか、本気で嫌になること多いし。友達に連絡とりまくって、現実逃避バンザイよ」
「同感。現実逃避って何であんなに楽しいんだろうな」
「あはは。ねえマスター、マスターだってそうでしょう？」
「そうだな。大きな学会の前の準備ほど、陰鬱になることはない」
「学会？」
あまりに似つかわしくない単語に首を傾げていると、女が説明してくれた。どっかの大学教授さんらしい。
「なんでまたバーテンなんか」
「現実逃避だよ」
なんでも近々に大きな大会があるらしい。さすがに直前になると他のバーテンに任せるそうだが。
「ね？みんな逃避中。だけどね、きっとみんな知ってる。これを乗り越えられたら、僅かかもしれないけれど、夢に近づくって」
「…」
「スクールの卒研が多分あんたにとって初めての大仕事で、多分それだけに緊張して考えがまとまらずにいるんだろうけれどさ、けどそれって…」
ひとくち酒を飲んで続けた。
「一度も挑戦せずにあきらめてしまう、ってことでしょう？」
何もいえなかった。確かにその通りだ。
「長い間思ってた夢ならそれだけ、忘れられない。心のどこかに棘になって刺さってる。そんなの悔しいじゃない。だから、少しでも棘をなくすために、みんな卒研なり論文なりを書くんだと思う。…そうだね、要は…悔しいって思うことが結構大切だと思うよ」
にこりと笑った。
「悔しい、か」
「うんうん。ハングリー精神ってやつ。卒研仕上げて、今の自分じゃこれ以上できないからこれで判断しろ！って教授陣に突きつけてやるの。当然それまでにはいやになるし、今のあんたみたいに向いてないかも、って思う。だけど、いつもこっちにえらそうな顔して課題やらなにやら突きつけてくる教授陣の鼻をあかしてやる絶好のチャンスよ」
「ぶはは。そうか、あのじいさんたちに挑戦か」
「そうそう」
「上手くいくか、わかんねぇけどな」
「だめ、そんな気持ちじゃ。上手くいくのよ。あわよくばその教授の後釜なんか狙っちゃったり」
「…」
一呼吸置いて大笑いした。さっきまで悩んでいたのが少しだけ、晴れた気がしないでもない。傍からみればただの酔っ払いに過ぎないのはわかってるけどな。
「笑ったらのど渇いた。チェイサーくれ」
だされたそれを勢い良く飲み干そう…としたが、叶わず噴出しながらそのまま椅子から転がり落ちた。
「マスターっ！純粋に水出してあげなきゃ！」
薄れゆく意識の果てにそんな声が聞こえたような気がした…。
気が付くと部屋の玄関で寝ていた。どうにか家までは帰ってこられたようだ。後で聞くと、あのバーでのチェイサーはスピリタスの扱いらしい。最後の最後で落とされたような感じだが、二日酔いの頭痛を除けはそれなりの気分だ。明日は久しぶりに実験室に寄ってみるか。