誘惑
毎日、毎日。なんでこんな目にあうんだ
目の前でヒステリーを起こしている上司を、心の中では醒めた目で見る。表面では申し訳なさそうな表情を作り、平身低頭を装う。
「申し訳、ありませんっ！」
何度目の謝罪か。
「謝るだけで何が変わる？ああん？俺はなあ、お前の尻拭いばっかりするためにここにいるんじゃないんだっ！たまには他の仕事もさせてくれよ、な？」
「もう二度と…」
「当たり前のことをくだくだ言うな！！……」
上司は荒くなった息を整えるため、冷えて不味くなった茶を流し込む。そして先ほどよりかはトーンを下げて、彼に言った。
「…芝…、お前、もういらん。出ていけ。最後の命令だ」
「課長！それは…」
「こんな簡単な言葉の意味もわからんのか？誰か、この小学生に通訳してやってくれ！」
そういって課内を見渡す。しかし同僚の誰も反応しない。芝はあせった。いつものヒスじゃない。
「課長、お願いです、もう二度と手間はとらせません。ですからそれは」
「……芝クン」
妙に優しい声。背中にぞくりと寒気が走る。
「君、働くの向いてない。人間ならさ、一回ないしは二回いわれたら、そのとおりするよ。なのに芝クンと来たら…」
「……」
「入社して二ヶ月、一体何回同じことで怒鳴られたね？ああん？」
「……」
「俺は覚えてるよぉ？３９回だ。３９回。良かったねー、４０回いかなくてさ。俺も良かったよ。４０回も、こんなミミズ以下の存在に構わなくて済むから」
それだけ言うと立ちあがり、課室から出ていった。芝は握り締めたこぶしを開く。爪の跡が痛々しく残っていた。
無言で自分の机まで戻り、手早く自分のものをまとめ始める。同僚の視線を感じたが、もうどうでも良かった。どうせ彼が視線を向ければ、慌てて自分の書類に見入るに違いないからだ。
「…ふん」
いつも慰めてくれる友人も、彼から視線をはずしたままだ。結局はその程度か。
「あばよ」
これ見よがしに戸を思いっきり閉めて、わざと靴音を高く立てて、堂々と正面から出ていく。そのまま繁華街をふらつく。
「畜生…あのヒス上司…言いたい事言いやがって…ミミズ以下だぁ？俺がミミズ以下なら、てめぇはゾウリムシ以下だ！」
就職難のこのご時世、仕事に就けるならどこでもいいと探して探して、やっと入り込めたあの会社だった。上司とは最初から反りがあわず、怒鳴られてばかりだった。最初のころは自分が仕事に慣れないせいだと思い、必死で適応しようと彼なりに努力したのだ。
けれども、彼がすることなすことすべて失敗ばかりだった。同僚からの失笑をかい、上司はますます怒り狂う。慰めてくれる友人の表情にも、あきれとどうでもよさが目立ち始めていた。
「所詮、そんなもんでしかないのかもな」
苦々しい思いのまま歩く。ふと、道端に座っている少女と目が合った。こんな繁華街には似つかわしくない、清楚な感じの少女だ。
「お兄さん、なんかいらついてるでしょ？」
彼がなんとなく想像したような声だった。
「…ガキには関係ないさ」
「大人って、そういう風に子どもから遠ざかろうとするんだよね」
「…」
少女は芝の隣に立って歩きだす。居心地の悪さを感じる。
「…何のようだ。俺は金なんか持ってないぞ」
「そんな風に見える、私？」
「……いや…」
「この街にいたから、あそこに座っていたから、私は体を売ってるように見られるんだよね。多分さ、私が高級住宅街の公園にいたら、そんな風には見ないでしょ？」
「……」
確かにそのとおりだろう。が、何も答えなかった。
少女の方は別に気にした風でもなく彼と並んで歩いた。
「帰らなくていいのか？」
「まだ帰るには早いもの」
言われて時間を見れば夕方にもなっていない。
「…お前はなんであんなところにいたんだ」
「そんなことよりお兄さん、お兄さんが今一番かなえたい願い事って、何？」
「…は？」
「お兄さんから、ものすごい気、感じたの。だから私、あそこにいたの」
「…病院はどこだ？連れていってやるよ」
「失礼ね。気なんか狂っていないわ。信じてよ」
「……」
俺は…仕事をクビになって…それで、それで…。
「おかしくなんかなってないよ」
「！？」
こいつ、俺の頭の中を読んだのか？
「…信じてくれる？」
「……大人になるってのは、物事をそう簡単に信じなくなるってことなんだ」
「でもお兄さん、もう私のこと信じてる」
名も知らぬ少女はにこりと笑った。それにつられて芝も引きつりながら笑う。
「で、一番かなえたいことって、なあに？」
「言ったら叶えてくれるのか？」
「うん。何でもいい。叶えてあげる」
彼は突然ふってわいたこの話に疑問を持たなかったわけではない。上手い話には裏があることは重々承知していたからだ。
しかし、少女の持つ雰囲気が、そんな疑いを払拭させてしまう。自分を見ぬいた彼女なら、何か叶えてくれそうな、そんな気がした。
「でもなぁ。いきなりそんなこと言われてもな」
「だって、何かあるでしょ？お仕事に戻りたい、とか」
頭の先まで真っ赤にして怒鳴り散らしていた上司が頭に浮かんだ。もうあんなところには戻りたくない。
「戻るんなら、もっと昔に戻りたいなぁ」
「昔？」
「そう。昔。ガキの頃にもっと勉強しておけば、こんなことにならなかったんじゃないかって。その頃からやり直せたら、どんなにか違った人生になるかと、な」
「ふぅん…」
社会に出て初めて知った冷たい風。自分がいかに守られながら暮らしていたか、それが身にしみた。安住の地を奪われたような、そんな気持ちのまま仕事をしていれば、失敗もするだろう。彼は、世間から見れば、大人になりきれていないのだ。
「無理だろ、そんなこと」
わずかに唇の端を上げて少女に問う。
「…」
少女が彼の顔を見た。日本人離れした顔立ちが、少女を少女と思わせない。
「それでいい？」
「えっ…？」
一瞬意味がわからない。
「子どもに戻りたい、それで」
「できるのか、そんなこと！？」
「だって言ったじゃない。何でもいいって」
心外そうに言う彼女。芝の心はにわかに喜んだ。
「時間つきで、はいおしまい、なんてこと、ないよな！？」
「失礼ね。そんなことしないよ」
戻れる。小さな街角が複雑な迷路に見えた、今では何でもないことでしかないことが輝いていた、あの頃に。
「いつだ？いつ、戻してくれる？？」
彼はうれしくなって少女に尋ねた。
「今すぐにでも」
彼女は満面の笑みを浮かべて、彼を思いっきり突き飛ばした。ちょうどそこに、ダンプカーが走ってくる。芝の心は凍りついた。
事故現場を人々があわただしく走る。少女はそんな中、冷酷な瞳で立っていた。だれも、彼女のことには気がつかないようだ。
「あなたの子ども時代、って私は一言も言ってないからね。上手くすれば、次も人間に生まれてこられるかもしれない。でも、そうでないかもしれないね」
風に乗って、くすくすという笑い声が聞こえた。