狭い中、ろくに身動きがとれずにため息をつく。下からの振動が胃に響く。
（うー…気持ち悪…）
そろそろ嵐は去ったと思うのだが、未だ上の重しをどけてくれない。かなりの重量のようで、押し上げようとしても無理だった。
（……なんでこう、わけのわからない目に…）
ユーフィース国立研究室群は変なところである。だからこそカルサートやシリアのような変わり者を受け入れられるのだが、突然突拍子のないことが起こる。この日もそうだった。その予兆は数日前になる。うきうきしながらアーリがシリアの個室に入ってきた。
「シリア！あのね、あのね！」
「何？」
はやる気持ちが抑えられない友人を抑えながら紅茶を出す。そのカップを受け取りながらニコニコと続けた。
「来週に決まったよ」
「…何が」
「ちょっと。忘れちゃったの、例のお祭り」
「………なんだっけ」
「…もう…。キス祭り」
「げ」
その言葉で数日前、リテが言っていたことを思い出した。
「確か…人にものを押し付けて受け取ってもらえたら、無分別にキスして回れる、ってやつだっけ」
「もっといい言い方できないかなぁ。プレゼントを受け取ってもらえたら、晴れてカップルになれるっていう素敵なお祭りじゃない」
「どこがよ。だいたいこの研究室群でいい男やいい女は、たいてい虫付きよ。あなただってそうじゃない？」
「そこはそれ、お祭りお祭り。既婚未婚、カップルだろうが何だろうが関係なし！その日だけのお遊び」
「…頭痛くなってきた」
ずずっと少し冷えた紅茶をすする。カップを置き、頭を抱えた。
「いいじゃない。みんな楽しそうよ。特に普段もてない人とか、鼻息荒いんだから。なんかもう殺気立ってるもん」
「…確かになんかぴりぴりしてるけど…」
どういう経緯でお祭り騒ぎになったか知らないし、知りたくない。あまりうれしくない答えが返ってきそうだからだ。
「で、何時？」
「来週の中日」
「げ…」
そんなバカ騒ぎにかかわりたくないので休もうと思ったのだが、その日にしか受け付けてくれない書類があった。
「せっかく顔出すのやめとこうと思ったのに…」
「そういう人間がいるから、締切日に重ねたんだ。あ、ちなみに私実行委員の一人だし。リテがね、『シリアは絶対そんな日には研究室出てこないから、なんか出てこないといけない日に設定しよう』って」
「…」
「やっぱあんたたち、スクール時代から親友だけあってわかってるわよね。というわけで、ちゃんと来るように。…いやなら受け取らなけりゃいいだけじゃない。ね？」
「大体そういうわけのわからない祭りだかなんだかのときって、大抵大騒ぎに発展するから嫌なのよ…」
「なんだ、自分がトラブルメーカーだってわかってるんじゃん。それなら安心」
「ちょっと。それどういうことよ」
ニコニコ笑うアーリをにらみつけるシリアだが、その視線に屈せず笑いつづけるアーリに負けた。
「あーはいはい。どうせ私は歩く災難製造機ですよ」
「そうそう。ちゃんと殊勝にしておくように」
「…」
言うだけ言ってアーリは出て行った。後に残されたシリアは渋面のままカップを片付ける。
「大体みんな、なんなの…。もっと大事にするもんじゃないの？」
疑問を発してみても答えるのは、ストーブの上でお湯を沸かしているおやかんぐらいだった。
で、あちこちでややこしい展開が繰り広げられている中をくぐり、やっと事務室までやってきた。
「まさかここでもお祭り、なんていわないよね？」
「まさかぁ。でもしたいならいいよ」
「あんた女でしょ！」
受付の女性をげんなりとした表情で見つめ、だめだこりゃとばかりに頭を振った。
「あらでもシリアさんなら私、いいんだけどなぁ。貴女、結構もててるのよ？女性職員に」
「なんっ！…ゲホっ！！」
あまりの言葉に思いっきりむせ込んだ。男性にもてているのではなく女性に持てているという事実。めちゃくちゃなうわさもまかり通るこの研究室群ゆえに、何を言われてもあまり気にならないのだが、さすがにこれには驚いた。青くなりながら後ずさりし、研究室から飛び出した。
「…早くかえろ」
しかし、玄関先でリテの周りに人だかりができており、思うように進めない。対して自分の周りには誰もいない。
「だからこんな乱痴気騒ぎの日に出てきたくなかったのよ…」
進めずにため息をついていると、リテがこちらに気がついた。
「シリアー！」
人波をかき分けて彼女のとなりに来る。それまで周りを取り巻いていた男たちは、シリアを警戒して少し離れた。
「やっぱり貴女といると楽でいいわ」
「……リテ…人妻でしょ…？」
多少含むところはあるが、リテは以前からこういう人間である。
「だから全部断ってるよ」
と、声のトーンを落として耳に囁く。
「だってあんまりいい男いないもん。フロストやあのクィンランドの教授さんとか間近に見てたら、一山いくらにみえちゃう」
「……リテ…それはちょっと…」
スパスパとものを言うのも昔からなのだが、あまりの物言いに苦笑するしかない。
「ところで、今からフロストのところに行くんだけど、ついてきてくれない？」
「何しに」
「もちろんこの本渡しに」
「家で渡しなさいよ。私は帰る…」
「だって所外持ち出し禁止だもん」
確かに持ち出し禁止のマークがある。とはいえ、司書と懇意にしていると、一日二日程度なら持ち出しをしても構わない。これのせいで図書館の本がなくなることもあるのだが、長い間続いたことというのは変わらないのか、相変わらずみんな持ち出しをしている。シリアもリテも数回その恩恵に与ったことがあるのだ。
「……何をいまさら…」
「あーっ。シリア、私のことをそんな目で見てたんだ！ひどいわっ」
と、往来で泣き真似をしてみせるからたまらない。
「わかったよ！もう…はいはい、さっさと行きましょ」
こうなればヤケだとばかりにリテの手をつかみ、地質学研究室の方へ向かっていった。
ここでの輪の中心は当然ながらフロストである。周囲の人間は全員女性で、中心で少し疲れた表情のフロストが丁重に断りを入れていた。
「せんぱーい、リテ来たよー！」
シリアの声に女性たちが一斉にそちらを向いた。リテはさっさとシリアの後ろに隠れてしまったので、その敵意をまともに浴びてしまった。
「本当に、割に合わないんだけど…」
「埋め合わせするからさ。頼むわよ」
「なら隠れていわないで」
「まあまあ」
そんなやり取りをしているうちにフロストがやってくる。
「まったく…。誰だよ、こんなわけのわからない祭り考えた奴…」
「あ、先輩もそう思います？リテなんか、私が絶対出てこないといけないように、重要書類の受け付け日に設定しただなんていうんですよ」
「そりゃ災難だったな。…で、リテ、何の用事だ？」
「あ、これ。私の研究個室に置いてあったから」
「おう、ありがとう」
差し出された本を手に取ると、ギャラリーから落胆のため息が漏れた。なんのことだろうと男が怪訝そうな顔をした瞬間、リテが抱きついた。
「わっ」
「受け取ったわね？じゃ、覚悟して」
言うなりフロストの顔を両手で包み込み、熱烈な口付けをはじめてしまった。
「………」
周りもあっけにとられ、研究室群一の美形カップルのキスをたっぷりと鑑賞している。
「リテ…」
あんたって…もうわけがわかんないよ…。
輪から離れてさっさと帰ろうとした瞬間、悪寒が走った。というより、先ほどから警鐘は鳴っていたのだが、一連の騒ぎで気を取られていて警戒を怠ったというべきだろう。
「シリア…こんなところにいたのか」
「…ま、まーね」
「どうしてまた」
「リテに送ってくれ、っていわれてさ」
少々ぎこちなく振り向くとやはりトミーが立っていた。フロストのところに来るとなれば、必然的に彼のところに来ることにもなる。
「じゃ、私帰るから」
「ちょっと待てよ」
回れ右をして駆け出そうとしたところに声をかける。こうなると無視して行けないのが彼女の性分だ。
「な、なに」
笑顔を貼り付けて聞くと、先ほどから手にもっていたそれを差し出した。
「…これ…」
「これって……20年前に亡くなった名匠がつくった、朱鷺のおやかんその２３プロトタイプ！名匠はプロトタイプは全部破棄したけど、かろうじて残ってるのがいくつかあるって…！」
「…なんで見ただけでわかるんだ？」
「今や朱鷺のおやかん自身がなくなってしまいそうな勢いなのに、まだプロトタイプ残ってたんだ！」
「軽く無視かよ…」
冷や汗を流しながらも喜ぶシリアを見つめた。
たまたま目に入った古物の店に置いてあったのだが、シリアが言うような大仰なものだとはトミーはもとより、古物店の店主も知らなかった。ただ、磨いたら綺麗な色だろうな、と思い買ってきたのが正しい。
「…これ、おまえにやるよ…。ちょっと磨いてみたら綺麗な色だったし…」
「ほんと！？」
と、手を出しかけたがその手が止まる。
「…どした？」
「……やっぱ今日はやめとく。くれるんなら来週にして」
「来週じゃあげない」
「えぇー！トミーのケチ」
「ケチでもいいから今受け取ってくれよ」
「……すごく嫌な予感がするから…もったいないけど…あきらめる」
「涙目になるくらいなら今受け取れってば」
「やだ。この惨状の中に手を突っ込む気はないもん」
「うーん…」
周りを見渡し、確かに惨状と言えないこともない。今日だけはすべての機関や研究がストップしていることだろう。と、視界の端に青いものが入った。
「…？」
不思議に思い近づく。シリアも好奇心に勝てず、トミーについていった。
「なんだこれ…丸い…」
「お前が触るな！！」
隣の茂みから大声。そこにはカルサートの姿。理系の研究室や研究所は比較的まとまって作られているので、こういうことになる。シリアはそれをわかっていたのに、リテの頼みが断れずにここまで来てしまった自分を後悔した。
「なんだよ、カルスか。って、これなんだよ」
「だからお前じゃないって。シリアなら絶対気になってこっちに来ると思ったのに！」
あながち間違いじゃないので苦笑いをする女。
「…爆弾か？」
「おうよ。俺手製の「青やかんのフリ」爆弾。遠くから見たらやかんにみえたろ？」
「…見えないことはないが…おやかんっていわないと…」
トミーの背後から一陣の風が吹き抜ける。それはカルサートのほほの真横を通っていった。あとには擦過傷が残る。
「…こういうことになるぞ」
「さすがシリア…。いやしかし！今日はやかんアタックも俺に味方するのだ！つまりは俺にプレゼントってことじゃないか！」
「！」
なるほど、といった表情のトミーと、しまったという表情のシリアが対照的だ。
「というわけでシリア。さあ、俺にやかんアタックを！」
「嫌ーっ！！」
今度こそ逃げ出さなくては、乱痴気騒ぎに本当に巻き込まれてしまう。それは勘弁して欲しい。一目散に正門に行ったが、同じように逃げ出そうとしている人の集団に合い通れない。仕方がないので追ってくる二人をかわしながら闇雲に走り回った。
どこをどう走ったのかよくわからないが、いつのまにか事務室の来賓室にあるテーブルの下で腹ばいになっていた。
「…なんなのよ今日は…」
今日こそは自分が原因じゃないと思いつつ匍匐漸進を繰り返す。来賓室には大きな窓があり、間の悪いことにブラインドが上がっているので立っていると丸見えなのだ。
「…シリア…さん？」
「ぎゃーっ！」
突然声をかけられて大声を出しかかり、慌てて口を抑える。恐る恐る振り向くと、なぜかここにいては不自然な人間がいる。
「あ、あれ？…グスタルド教授？なんで？」
「それはこちらが聞きたいくらいだが。何故貴女はこんなところで腹ばいになっている？」
最初からグスタルドはこの部屋にいて本をより分けていたのだが、突然シリアが入ってきてテーブルの下にもぐりこんだのだ。彼がドアから見えない位置に立っていたせいだろう。
と、窓の向こうで朱鷺色のおやかんを持ったトミーと、青い爆弾を持ったカルサートが走り回っているのが見えた。
「…ははぁ。今日の乱痴気騒ぎか」
「それ以外に何があるんですか…」
泣きそうになりながら細々と返事を返した。
「なら、これを使っては？本を借り出しにきたのでかなり大きいものだから、余裕だろう」
差し出されたのは大きなダンボール箱。一人ならかろうじて入れそうだ。
「上からちゃんと蓋をしておくから、大丈夫」
台車の上にそれを載せ手招きする。外では段々こちらに二人が近づいてきているので、背に腹はかえられないとばかりに飛び込んだ。その上から手際よく蓋を閉め、テープで貼り付ける。
（…ところで教授、なんでまた？）
「野暮用、野暮用」
（野暮…）
「ところで変な具合になっていないか？私も入れるサイズではあるが…」
（は、入るんですか？）
「ああ」
こともなく返事をされ、なんと返していいかわからなくなった。考えてみればこの人のことをあれこれと深く考えるのはよくない。そのうちに上にもうひとつ箱を載せたのだろう。背中の上に重さがかかる。
「これから移動する。しばらく我慢をしてくれ」
言うなり振動が伝わってきた。
長い長い時間が過ぎたような気がしたが、実際はそんなに時間はたっていない。やっとのことで上から荷物をどけられ、蓋を開けてもらった。
「あいたたた…」
背中と首をさすりながら伸びをする。研究室群から少し離れた公園だった。
「大丈夫か？」
「ええまぁなんとか…。助かりました」
「それはよかった。しかし…あの騒ぎは一体…」
「こっちだって知りたいぐらいです。まったくいい迷惑」
「おかげでこちらに気を取られずにすんだがな」
「でも…教授ほどの人なら絶対に見つかってるはずなのに…」
しげしげと銀髪の男をみやった。
「人の死角は心得ているよ」
にやりと笑うその姿に、やはり普通の人ではないのだと実感した。
「ところで…」
「はい？」
「あの祭りは確か、プレゼントをして受け取ってもらえれば、口付けをしてもいい権利が得られるのだったな？」
「はぁ。誰が決めたか知りませんが。来年は断固拒否してやるんだから」
いきまいているところに、笑いを含んだ声がかかる。
「貴女は、私の箱を受け取ったね？なら、私は権利があるのではないかな？」
「……ゑ゛？」
突然の言葉に硬直した。
「だだだだ、だって…。教授…」
「私があの祭りに参加してはいけない理由が、どこにある？」
「だからって…あの…その…」
微笑みながら眼鏡をはずす。その笑みは怖さも持っている。
「覚悟はどうかな？」
「た、たぁすけてーっ！！」
結局、シリアの唇は必死の逃走により守られた。が、後に厄介ごとの種になるのだが、それはまた別のお話。
END