星降りの夜
その町は夜が早く、街灯も少なかったのでよく星が見えた。ユウは民宿からこっそり抜け出し、裏手の林をかけていく。
「こんな素敵な星空が見えるのに、寝てなんかいられないし、おとなしくなんてとてもとても…」
見上げた空は濃紺。深く果て無き空間。無数に散る光。ユウの心がざわついた。何かが叫ぶ。心が馳せる。彼女の心だけが空に上っていく感覚。
「ナミ…気がついたかな」
幸せそうに眠っていた友人のことを考えれば少し心が痛む。一言声をかけてあげればよかったかもしれない。だが、そんな余裕もなく、彼女はあせっていた。なぜか、一人でこないといけないような気がしたのだ。
しばらく獣道を行くと視界が広がった。かすかな風に、草が小波めいた音を立てる。
「すっごい…！」
都会ではもちろん、田舎でさえもめったにお目にかかれないほどの星。
「星って…こんなにいっぱいあったんだ」
思わず仰ぎ見た。瞬間、空が動いた。
「え…っ！」
それまで静かに輝きを放っていた星が、ユウめがけて降ってきたのだ。あまりの光量に目がつぶれてしまうほどだ。瞳を閉じたかったが、何かがそれをとめる。何故と考える間に、輝きはどんどんと降り、やがて紫紺の空だけが残った。
「………」
言いようのない恐怖と、理由のない安心が入り混じっている。帰ろうと振り向いても、そこにあったはずの獣道は閉ざされていた。
「ようこそ、星降りの丘へ。そしてお帰りなさい、ユウ」
突然の声。びくりと体を震わせてそちらを向くといつのまにか青年が立っていた。星のない空を切り取ったような布をまとい、それよりももっと深い紺の瞳が印象的だ。けれどもどことなく感情のない、作り物のような感じも受ける。
「…えっ？お、お帰り？」
この町に来たのは初めてだ。夏休みももう終わりで、暇と多少のお金があったから友人と旅に出ることにしたのだ。ここを選んだのに他意はなかったはずだが…。青年はそんなユウの心中を知ってか知らずか続ける。
「僕は君がここに戻ってくるのを信じていたよ。その様子だと変わらずにいてくれたんだね」
「ちょ…ちょっと待って！私、ぜんぜん話が見えないんだけど！あんた、誰よ！？」
青年はちょっとだけ悲しい顔をする。
「僕はトウカ。ユウは…忘れてしまった…んだよね…。もう、ずっと昔のことだから」
「トウカ？」
遠い昔。今でない世。ユウがユウであって、ユウでなかったころ。魂に刻まれた何かが騒ぐ。ちょうど、彼女をこの丘にいざなったように。
「私…しってる？聞いたことが…ある。トウカ。トウカ…冷たい、炎」
トウカはにこりと笑うと彼女の手を取った。
不意に体が浮かぶ。けれども怖くない。繋いだ手は暖かく、こちらが握れば反応してくれるから。最初見たときに感じた無機質さはもうどこにもなかった。
相変わらず星はない。しかしそのことに、地上にいる人は誰も気がついていないようだ。友人は夢の中か。
「あれ…どうして、月も星もないのに、下がはっきり見えるんだろ？」
「それは…ユウ自身があかり、だから」
「…？」
「自分自身の明かりで、ユウは下を見ているんだよ。だから、星は見えない。光の中にいる人は、ほかの光が見えないものだから」
言われて自分を見たが、特に変わったところはない。不審の目をトウカに向ける。
「大丈夫。僕を信じて」
その笑みはたちまち不安を押し流した。自分の疑問に答えてくれていないことも、これから彼女はどうなってしまうのかということも、なんだかどうでもよくなった。
祭りの囃子が聞こえた。
夏祭りはもう終わっている。秋はまだ早い。
「行こう。やっと僕はあそこに行ける。ユウと一緒に」
「あそこって…お囃子が聞こえてくる？」
「そう。言霊祭り」
「コト…？」
普段聞きなれない言葉に気を取られた瞬間、ユウの足はすでに地面についていた。
「すっごい…」
本日二度目の言葉。
「まだ時間はあるよ。楽しもう」
トウカに連れられてみてまわる祭りの喧騒。それはどこの祭りでもあり、どこの祭りでもなかった。
どこまでも続く提灯。
地の底から揺さぶり響く太鼓の音に、耳にやさしい笛。
思い思いの姿で走り抜けていく子どもたちと、それを見守る大人たち。
かつて、一度は行ったであろう。そんな祭りがそこにあった。
「あそこの人も、ここの人も、光ってる…」
見る人すべてがぼんやりと光っていた。それがその辺りを昼間のように明るくしているのだ。
「そりゃそうだよ。みんな、星降りの丘に下りてきた光たちだから。ユウと同じ、灯りだから」
「私！？私は人間よっ」
「トウカ！」
なおも言い募ろうとしたそのとき、トウカと同じぐらいの年の青年が声をかけた。
「キョウ！何年振りだろう！」
「そんなこと数えちゃいないよ。それよりここにいるってことは、お前、やっと？」
ユウに目をやりながらキョウと呼ばれた青年は聞く。
「ああ、ぎりぎりだった」
「よかったな」
多分この二人は親友なのだろう。何も知らないユウでもそれがわかる。それだけ彼らの笑顔はすがすがしかった。
があぁぁん。があぁぁん。
銅鑼の音がする。
「あっ。じゃあユウ。僕は行く。キョウ、ユウを頼む」
「おう」
そしてトウカは人ごみに消えた。
「君がユウさんか。うん。トウカが待つはずだ」
「あの…トウカ…は？それにこのお祭り…」
「トウカは凍火。冷たいんだ。だから燈火になりに行く。そして今年は、奴が言霊祭りに参加できる最後の年」
わあっとざわめきがおきる。舞人の衣装で、トウカはやぐらの上に立っていた。
「いつのまに…あれ？氷のトウカ？」
トウカは、氷で出来たトウカと対峙した。しばしの静寂の後、手に持った錫で戦い始める。
「これが言霊祭りの目的。ひとつの言葉を通じて、別の自分に変わる為の儀式。トウカは何年も待って、この舞に出られるようになった。でも、待っていた。君に、ユウに自分が変わる様を見てほしいと」
キョウの説明も耳に入らない。二人のトウカは踊るように戦っていた。
「…」
いつしか笛の音も太鼓も止み。神輿の担ぎ手も走る子どもたちも。
しゃららん、しゃららん。
その場を支配する音は二人が打ち合わせる錫。動かすときには音がせず、打ち合わせたときだけすんだ音が届く。飛び、駆け、受ける。殿動きにも無駄はなく、軌跡は見事な絵を描いた。
…がんばれトウカ…
ユウはその光景に魅入り、トウカが燈火になれるようにと祈った。知らないはずの人だけれど、心の奥、封じていた記憶から思慕があふれる。
「トウカとユウは火と燈篭。もともとから惹かれ合うもの。そうして出会ったけど、トウカは凍火のままではユウとともに行けない。彼は燈火となるべく空を駆けはじめ、君は地上へ降りた。もう、ずっと昔のこと」
ユウの耳元でキョウが囁く。
「灯りのない燈篭が空にとどまることはできないから。…星降りの丘で、必ず会おうねと。…私はそして人となり、トウカと呼び合うのを待っていたの…」
そして今、彼は戦う。新しい自分へと変わるため。
…そうだね。私も変わろう。もう思い出したよ、トウカ…
氷のトウカの勢いが少し弱まる。トウカは機を逃さず、錫の先端を氷のトウカの喉元へ突きつけた。
「トウカ…！」
まわりの歓声にユウの体が押される。少し照れくさそうにする彼女に、燈火は変わらぬ微笑を向け、手を出した。
「ユウ…夕焼けのユウ…。僕はやっと、君にふさわしい、暖かい光になれたよ」
「うん…まってたよ。ずっと、まってた」
二人の姿は重なり、暖かい光が辺りに広がる。光は再び空へと昇り、そして消えた。
なんとなく目を覚ましたナミは、窓の外に懐かしい赤を見た。遠い、遠い。まだほんの小さな子どものころに見た落日の赤。再び眠るその耳には、かすかに祭囃子が届いた。