それから何か変わったといえば、なにも変わっていない。シリアはいつものように研究室に出てきて、いつものように資料と格闘している。トミーも自分の学会が近いこともあり、たまにシリアのところへ来ても書類だけ受け渡してさっさと帰っていった。唯一変わったことといえば、トミーと二人きりになることを避けているということだ。ただそれだけである。
「今日も疲れたぁ」
　思い切り体を伸ばして椅子の上で欠伸をした。背もたれが撓み、顔がさかさまになったところで、来訪者の存在に気がつく。
「よぉ」
「…カルス」
　体を元に戻そうとしたが、かなりブリッジ状態になっていたらしく、キャスターなどついていないがそのまま椅子がひっくり返った。
「あいたぁ」
　床に座りながら椅子を起こす。
「何をやってんだよ」
「うるさいわね。なんか用？」
「いや久しぶりに食事でもどうかと思って。最近出てないだろ？俺とお前とトミーと、三人でさ」
「うーん。そう言うのはもっと早く言ってほしかったな。ジェイのご飯作らなきゃいけないから、パスね」
「そうか。せっかくおごってやろうと思ったのに」
「心惹かれるものがあるけどやっぱりやめとく」
　椅子に座りなおしながら笑った。
「じゃさ、明日はどうだ？」
　シリアはカレンダーを見た。何も予定は入っていない。
「いいよ。でも珍しいわね。絶対おごったりしないあんたが、食事に誘うなんてさ」
「…たまにはそんな事もあるさ。もっともこれ、発案は俺じゃなくてトミーなんだけどな。俺に声かけてきたんだが、野郎と差し向かいで飯食うのもうっとおしいから…。だから仕方なく誘いに来た」
「なにそれ？おまけ？」
「それに近い…いや、そんなことはない」
　彼女の背後に何やら丸い物体が見えたので、慌てていいなおした。そして、じゃあ明日と言いながら部屋から出かかり、はたと歩みを止める。
「なあシリア」
「ん？」
「俺たち………なんでもねぇや。じゃな」
　何かを言いかかってやめた。気になるが問いただす気にならない。ふと、二週間前のトミーの言葉が頭に浮かんだ。

　　俺がやらなくても、きっとカルスが同じことをしていたと思うから

　彼女はその言葉を振り払うように強く頭を振ると、帰り支度をはじめた。


「よくこんないい店知ってたわね。あんた達とはおよそ結びつかないのに」
「先輩から教えてもらったよ。たまにはこんなところに来てみないと、自分の作るヘボ飯の味しか知らないのも嫌だしな。それに、せっかく無事に学会が終わったんだから、自分をねぎらってみた」
「なるほど。ヴィンダース先輩ならこういうところ、いっぱい知ってそうだわ。多分リテもその加減でいろんなとこ行ってるんだろうなぁ」
　はぁと息をつくシリア。快く空腹も満たされ、デザート代わりの紅茶を一口。
「ところでよ…」
　辺りを不審そうに見まわしながらカルサートが声をかけてきた。
「あ？」
「誰がここの飯代払うんだ？」
「……トミーじゃないの？」
「なに！？最初ワリカンでって言ってたじゃねぇか」
「私、そんなこと知らないもん」
「シリアはいいんだ。でもカルス、お前には言ったぞ」
「そうだっけ？でも俺、おごってくれるもんだとばっかり思ってたから割れるほど持ち合わせはないぞ」
「勘弁してくれよ…」
　頭を抱え込むトミー。
「で、どうすんのよ。ここで嘆いてたって仕方がないわ。もうみんな食べちゃったんだから。ワリカン？」
「いやそれじゃ俺が払えん」
　カルサートが胸を張った。
「胸を張って言えることじゃないだろうが…」
　そんなカルサートをみてトミーはため息をつき、シリアは冷たい視線を送るのだった。

　すったもんだもめた挙句、シリアがとりあえず全額払って、後から返してもらうことになった。
「後悔だわ。来るんじゃなかった」
「すまん。もとはといえばこいつがまともに俺の話を聞いてなかったからだ」
　トミーは欠伸をしているカルサートの髪を引っ張った。
「ってーな」
「漫才するのは勝手だけどお願いだから明日中には返して頂戴」
「わかってるって」
「あーあ。玲霧堂にいっておっちゃんにとっといてもらわないと…」
「玲霧堂？なんでまたそんなところに」
「あそこに掘り出し物の古本が出たのよ。昨日行って見つけて、今日買おうと思ってたのよね」
「それであんな大金持ってたのか」
「昼は忙し過ぎて買いに行けなかったの」
「何の本だ？」
　髪を守りながらカルサートが聞いてきた。
「世界言語体系。図書館にしか置いていないような、ものすごいやつ」
「へぇーっ。そんなもんどうするんだ」
「研究に役立てるにきまってるでしょ。あんたみたいな分野には関係ない話よ」
　そういうと老舗の古売屋がある通りへと向かう。トミーはそちらではないが、カルサートが同じ方向なので途中まで一緒に行くことにした。
「じゃまたな」
「ん」
　トミーに手を振るとシリアはすたすたと歩み去る。後を追うようにカルサートが走った。

「じゃおっちゃん、待っててね」
　閉店間近の古物商店に飛び込み、なんとか主人に話をつけたシリアは、ほっとした表情をしながら帰路についた。なぜかカルサートも一緒に並ぶ。
「あんた…まだいたの？」
「そりゃないだろ。いようがいまいが、俺の勝手だ」
「そりゃそうだろうけど」
　ちょっとだけ躊躇い、けれどすぐ自分の家に向かって歩き出した。なにもいわず、半歩下がって男が歩いた。そして人気のない道に入って、カルサートは気になっていたことを聞いた。
「なあ…。トミーと、なんかあったのか？」
「…どうして？」
　内心動揺したが、そんなことはおくびにも出さない。
「なんか…なんか、違うような気がするから…」
「そう？…変わらないよ…」
　その答えを聴くや否や、カルサートはシリアの腕を掴んだ。バランスを崩しそうになったが耐え、抗議するように男の目を見る。近くを走るハイウェイからの拝気音だけが、時折響く。
「離してよ。早く帰らないと、ジェイが待ってる」
「……本当に、何もないんだな？」
「しつこいわね。何があろうと私とトミーの問題よ。あんたには関係ない」
　手を振り解こうと振りまわす。男は空いている手をシリアの頬にかけ、自分の方へと向き直らせる。その瞳はかすかに濡れていた。
「…何を思い出した？何を泣いてる？」
「泣いてなんかない！早く離してっ」
　やはりなにかがあったのだろう。今ははっきりとわかる。もう崩れているのだ。微妙な位置に存在した三角形は。
「…まさかあいつが…」
　意外だった。お互い、耐えられなくなるのは時間の問題だったが、自分より先にトミーが爆発するとは思ってなかった。
「掴まないでよ！痛い！」
　知らず知らずのうちに力がこもっていたらしく、シリアがうめいた。
「…俺も」
　爆発しそうだ。認めるよ。
「お前が…」
「聞くもんかっ！！さあ離せ、離せってば！！」
　がぃんと鈍い金属音がした。どうやって現れたのか、鋼鉄製のヤカンがカルサートの頭の上に乗っていた。
「…っ痛ーっ！」
　掴んだ腕はそのままに痛恨のうめきを上げる。
「お前なぁ…人が話をしようとしてるのに」
「あんた、まともに話しなんかしたことないもん。いいかげん離して。帰らせてよ」
　なんという言われ様だ。だけどここで帰すわけにはいかない。こうなったらはっきりしてしまわないと、寝ることも出来ない。
「いいから聞け、シリア。お前、どっちがいい？」
「……えっ…！？」
「俺と、奴と。どっちを選ぶ！？」
　腕から力が抜けた。
「そんな…いきなり」
「奴に何をされた？」
「なんでいわなきゃいけないの！？」
「条件は…対等がいい」
「冗談はやめて！」
　再び力をこめ、むちゃくちゃに振る。が、無駄だった。
「冗談なんかじゃない」
　じっと女の顔を覗きこんだ。逸らされる。それでも向き直らせ、目を見た。毅然とした光。その奥にあるなにか。
「何を、されたんだ？」
　絶対に言うもんかとばかりに睨みつける。
「あ…あんた、ミス・エンケフィにふられたからって、手近なところで間に合わせようとしないでよっ！あんたの理想は知的美人だったでしょうがっ！！」
「間に合わせ…？」
「そうよっ。今まで人間扱いもしなかったのに、突然女扱いなんかしないでっ！間に合わせ程度ならお断りよ！それなら私の答えは決まるわ！私はトミーを…」
「選ばせないっ！」
　言い募ろうとしたシリアの唇は、男のそれに塞がれていた。頭半分の背の差が、女を爪先立ちにする。ただそれはほんの一瞬だけだったが。
「選ばせ、ない」
　問答無用で歩き出した。腕が掴まれたままなのでシリアも動かざるをえない。引きずられるような形でついていけば、いつしか郊外の丘。玲霧堂が街のはずれに建っているせいで、歩けばすぐに人気のない丘へたどり着く。
「ちょ…ちょっと…」
「…」
　無言のまま丘の中腹まで来ると力任せにシリアを投げ出した。柔らかい草の上に転がる。態勢を整えるより先に男にのしかかられた。
「馬鹿っ！退いてよっ」
「…もう、いい」
　静かな声だった。思わずおとなしくなったシリアの顎をカルサートはそっとなでる。
「答えなくていい。答なんか、いらない」
「何を言って」
「…今、俺はお前がほしい」
　たとえその後に何が待っていようと、今、俺はお前を求めている。
「……そんなこと言われて、はいそうですかなんて言えるわけ…」
　最後まで言えなかった。男の目に宿る光を見てしまったから。狂気ではない、本気を。そして理解した。自分たちはもうただの幼馴染に戻れないのだ。戻りたくても、願っても。
「本気…？」
　縦に頭が振られる。長い長い髪がそれにつられて揺れた。その姿にもう一人が重なる。ぜんぜん似ていないのに同じだと、彼女の心が叫んだ。
「でも」
　トミーが自分をかき抱き、その想いをぶつけてきたのはそう遠い話ではない。今だその感触の残る体に、新たな感触を残すことは嫌だ。
「嫌だ。…離して」
　どうにかして逃げようともがく。それを押さえながらカルサートは聞いた。
「どうしてだ？好きな女を抱きたいって思うのは、当たり前だろ…？」
「…同じね」
　突然もがくのを止めた。男も拍子抜けして力が抜ける。それを見逃さず、シリアは男の下から這い出した。つき飛ばされてバランスを崩しそうになったが、かろうじて耐えて聞く。
「何が」
　背を見せて座っているシリアは振り向かない。
「あんたもトミーも、同じ。『好き』って言葉だけで、自分がしたこと、すること、全部帳消しにできるって思ってる」
　淡々と紡がれる言葉の裏にある、どろどろとしたもの。
「お前…トミーに…」
「ええそうよ」
　短い肯定の返事を聞くや否や、再び引き倒した。そのまま口唇を重ねる。幾度も、浅く、深く。カルサートは貪った。激しく抗う手を押さえ込み、身動きが取れないようにする。悔しかった。シリアが、自分ではない男の体を知っているということが。そしてそれ以上に、トミーに出し抜かれたということが。
「忘れさせてやる！」
　奴が言った事も、奴の声も、奴の体も、奴の熱さも、奴の匂いも何もかもみんな！全部、俺が塗り替えてやる…！
「！！」
　シリアは何事か叫んだが、男の耳には届かなかった。それでもいつかは届くだろうとでもいうかのように叫びつづけた。その間にも男の手は体中を這い、まさぐる。いつしか体は剥き出しにされ、口は手で覆われて。手が、指が動くたびにシリアの体は細かく揺れた。自分が女であることを嫌でも意識した。
「…渡すものか！」
　耳元で素早く囁かれたかと思うと、なんの前触れもなく衝撃が彼女を襲う。くぐもった男の声と、体が直接ぶつかる音と、手の下の声にならない言葉。全力で押してくる力に耐えられるはずもなく、無秩序に暴れていたシリアの腕は次第に動かなくなった。
「畜生…」
　こうなることはもっと早くから分かっていた。少なくともいつぞやの遺跡の夜、あのときにはもう体が理解していたんだ。いつだって毅然として、たった一度だけ、俺に涙を見せたこの気高い女を、めちゃくちゃに…。
　ふと目があった。泣いてはいない。ただじっと、いつもよりほんの少しだけ厳しい目つきで彼を見ていた。その瞬間に男の中で猛り狂っていた熱情が収まる。しかしもう遅かった。シリアの中で、熱が爆発した。

　のろのろと起き上がり、緩慢な動作でシリアは身支度を整え始めた。カルサートはそれをじっと見ていた。どちらもなにも言わなかった。言えなかったのだ。支度を整える間の短い時間が沈黙のまま閉じる。
「…帰るね」
　絞り出すように声を出し男の顔を見た。その表情が少し変わる。彼は泣いていた。声はなかったが、双眸から落ちるのは紛れもなく涙だ。
「なんで…あんたが泣くのよ…。泣きたいのは、私なのに…」
　冷たい光を宿したままそういうと、ふらつきながらその場から去った。カルサートは見送ることしかできなかった。相変わらず涙は止まらない。

　いま、自分は何をした？

　シリアに一体、何をした？

　頭の中をめぐる後悔と、今だ体に残る余韻。そして、犯されてなお気高かったシリアの瞳。
「こんな…はずじゃ」
　こんなはずではなかった。しかしもう賽は投げられてしまった。彼自身が投げたのだ。
「間に合わせなんかじゃないって…。どうして俺は…言えなかった…」
　体を走りぬけた激情。一体、自分のどこにそんな意識があったのだろうと不思議におもうほどだ。ままならない心を抱え、カルサートは泣いた。泣けないシリアの代わりに、拳を地面に叩きつけながら絶叫した。
「好きなんだよ…っ…めちゃくちゃにしたいほど…壊したいほどにっ！！」

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