マイラの湯治場に近い。辺りに硫黄の匂いが微かに混じり始めた。
「僕は温泉、入りたいなぁ。前に来た時は結局入れなかったから」
　フォディニーはうきうきした声で一人ごちた。
「それもいいかもな。別に今回は急ぐわけじゃないし」
　レイラも一度、温泉に入ってみたかったのだ。前回は王者の剣を鍛えに来ただけで、魔王を倒すという急ぎの用事を抱えていた。ほとんど気の休まる事などなかった。しかし、今はそうではない。
「決まりだね。じゃあ、トウバさんに会いに行くついでに、温泉だ」
　トウバとの再会を果たし、彼の計らいで一番いい宿にとまることができた。早速温泉に入ってみようと思ったが、そこは混浴である。
「……」
　レイラはちょっと考えた後、ベッドに潜りこんだ。少し眠って真夜中に入ってみようと思ったのだ。そして深夜。
「お？よしよし。誰もいねぇな」
　そっと脱衣所で衣服を脱ぎタオルを一枚もって露天風呂に向かった。真夜中でも開いているのでその辺りは明るいが、少し離れたところを見ると真っ暗。湯気にひとつ二つ、明かりが揺らぐばかり。
「……気持ち、好いな。こういうのも」
　湯船に浸かって体を伸ばす。ときおり吹く風がレイラの体を冷やし、それがひどく心地良い。彼女は突き出している岩にもたれてうとうととした。そして次に気がついたのは、誰かが温泉に入ってくる音を聞いたからだ。
「…さすがに夜中に入る人もいないよな。貸切貸切」
　のんきな声はフォディニーだ。レイラの存在に気がついていない。岩のせいで死角になっているのだ。男が湯船に浸かる音がした。
「うーん。誰もいないから変に魔力を使う事もなし…」
「誰もいないわけじゃ、ねぇんだけど…」
　岩に隠れてレイラがぼそりと告げた。その瞬間男の髪が金色に変わる。が…？
「…レイラ…？レイラだね、そこにいるのは」
　そういうと再び髪はもとのブループラチナに戻る。
「いて悪いのかよ？」
「そんな事ないよ。ただびっくりして…。レイラも僕と同じ考えをたどったのか」
　変な沈黙。レイラはなにも言えなかった。恥ずかしいのだ。岩陰で赤くなっているのは、決して温泉のせいだけではない。
「そっちに行っても、いい？」
　その一言でレイラは、自分が今どんな格好なのかも忘れて立ちあがり、そして怒鳴った。
「バ、バカな事を言うな！」
　岩陰から突然現れた裸身のレイラ。ほんのりと桜色に輝き、とても美しい。フォディニーはあっけに取られて彼女をじっと見、そして顔を赤くするのだった。レイラの方も妙に寒いのを感じ、自分の体を見て顔を引きつらせながらその場にひっくり返った。盛大な水音が響く。
「レイラ！」
　フォディニーは慌てて彼女のところに行き、おぼれてしまわないよう抱き上げた。水で彼女の髪はぴったりと肌に張り付いている。それがなんとも言えない色気を誘った。熱くなってくる体をもてあましつつもレイラの頬を軽く叩く。
「レイラ、レイラ。こんなところで倒れないでよ」
「……んん」
　目を開けたレイラはすぐ近くに賢者の顔があるのに戸惑い、自分は彼の腕の中にいる事を自覚した。だんだん顔が引きつってくるのが自分でもわかる。
「…ひきゃぁぁっむぐぅ！」
　叫ぶレイラの口を大きな手が覆った。
「落ちついてレイラ、気持ちはわかるけど今は夜中だってば。みんな起きちゃう」
　耳元でそうたしなめられ、彼女は少し冷静になった。しかしこの状態は非常に危険、そう彼女の本能は告げている。
「はははは離せ」
「うん」
　意外にもおとなしく男は手を離した。自由になると体を浸からせたまま岩を挟んでフォディニーの反対側に行こうとした。が、レイラが動くより早く彼女は腕をつかまれていた。
「ここに、いて」
　そのあまりに単純で真摯な願い。じっと彼女を見る誠実な瞳。
「…わかったよ」
　再び岩に持たれかかるように座るレイラ。フォディニーもそのとなりに座り込む。今だ繋がれた手が熱い。
「…手は、離してくれないのか？」
「離したら、もっと別のところをつかみそうだから…」
「………」
　彼女はそれ以上何も言わずに同じように水面を見つめた。繋がれた手を振り払うつもりもなくなった。
　ただ時間だけがながれた。
「レイラ」
「フォン」
　二人同時に口を開き、顔を見合わせてまた黙りこむ。先に口を開いたのはレイラだった。
「な、なんだ？」
「……もっと近くに行っても…いい？」
　これ以上近く？おそらくフォディニーはいつものように彼女を後ろから抱きたいのだろう。
「ななななななな」
　まともに声が出てこない。いくらタオルで体を隠しているとはいえ、後ろにつかれるとなると…。瞬時に赤くなった。一体今日は何回赤くなっているだろうか。そんな事を思いながらそのまま乳白色の湯船に沈んで行くのだ。しかしそれをそのまま見逃すフォディニーではない。沈む彼女を引き上げ岩に持たれかからせるのだった。
「レイラ…沈まないでよ」
　少し悲しそうにレイラを覗きこんだ。
「君がなかなか懐いてくれないなら、僕が懐くしかないじゃないか…」
　よくわからない理屈を言い、彼はレイラの体をそっと抱きしめた。
「何もしないよレイラ。ただ…こうやっていさせて」
　耳元でささやかれる。レイラは体を固くし、ぎゅっと目を閉じて湯船に浸かっていた。男の手は彼女の臍の辺りで軽く組まれている。拒めば、振り払えばすぐ自由になるだろう。しかしレイラはそんな気が起きなかった。以前の彼女であればこんな状況になる事すらなかった。きっと問答無用で投げ飛ばしていただろう。
「もっとゆったりすれば？」
「ででできるかかか！」
「そっか。それもそうだね」
　後ろから聞こえる声は何か楽しそうだ。
「おまえって奴は！」
　怒り気味にレイラは後ろを振り向く。
「なぁに？」
　目があった。彼女は恥ずかしくてすぐ顔を下に向ける。フォディニーも顔を赤くして少し遠い方を見た。そしてレイラの、まだ成熟しきっていない肩を抱いて自分のほうに引き寄せた。体が震えたが、レイラが逃げる気配はない。
「…レイラ…。いい匂い」
「……フォンも…」
　恥ずかしそうに言うレイラがとても愛しい。そっとあごのラインをなぞった。ちょっと持ち上げて見ると、レイラはとろん、とした目で彼を見た。それが余計に彼を刺激する。がレイラは別に彼を誘惑しようとしてそんな目をしたわけではない。のぼせたのだ。そのことに気がついたフォディニーはあわてて彼女を抱えて温泉からあがった。
「全くこの人は…」
　口ではそう言いながらも慈愛に満ちた微笑を浮かべている。ちょっと躊躇したものの夜中なら、と思って女性用更衣室に入りレイラの衣服をもってきた。今度は男性用更衣室に入りバスローブを羽織って出てくる。彼女用のバスローブを着せられたレイラは完全にのぼせて目を回していた。その彼女の上に二人分の荷物を乗せ、彼はレイラを抱き上げた。

「んっぎゃぁぁぁ！」
　早朝、ふと目を覚ましたレイラは隣りにフォディニーがいるのを見た。そしてこの悲鳴である。彼は飛び起きたが、それよりもさきにレイラにベッドから蹴落とされていた。部屋の外では他の泊り客がざわざわしだした。
「なになに！？何が起こったの」
「それはこっちの台詞だ！てめぇ、なんでこんなとこで寝てやがんだ！自分の部屋があるだろ！」
「だって僕も眠かったんだよ。君を温泉から引き上げて結構疲れたし。別に何もしてないって…」
「そんな問題じゃない！」
　一声レイラがうなる。それが力となり、どこからともなく雲を呼び出す。
「うわっ！」
　酷い音を立ててフォディニーの上に雷が落ちた。レイラは荒い息を吐きながらどうせ無事であろう男を見ていた。煙が消える頃、少し焼け焦げた男が見えてくる。
「朝からこりゃ酷いな。結界を張らなかったらどうなってた事やら…」
「感謝しろよ、手加減したからな」
「あの怒髪天の状態で手加減かぁ。レイラも相当魔法が使えるようになってきたね」
「……」
　何を言ってもこの男にはこたえないだろう。恐ろしい疲労感を感じてレイラは再び横になった。
「寝る」
「あれ、寝ちゃうの？」
　床で首をかしげながらフォディニーは問うたが、レイラは答えない。
「じゃ、僕はもう一回温泉に行ってこよーっと」
　嬉々として部屋を出て行く声を聞きながら、レイラは深く溜息をついた。
「俺…とんでもない奴に魅入られた気がする…」