気がつけばもう日は高い。寝すぎて少し痛む頭を抱えてトミーは起きあがった。隣のベッドではカルサートが背を向けて寝ている。
「シリアが…いない…」
　風呂場も覗いたがいない。まさかと思いつつもクローゼットを開けてみる。当然いるわけがない。
「おい、なんか服着ろ。俺は野郎の裸なんぞ見たくねぇ」
「…カルス」
　不機嫌そうな声でカルサートがうめく。
「シリアがいない」
「…」
　何も言わずに窓の外をあごでしゃくって見せる。そちらに視線を向けると、発掘現場が見えた。その中に彼女らしき人がいた。
「…かなり早くに出ていったな」
「知ってたのか」
「ドアが閉まる音だけ聞いた」
　トミーはベッドに腰かけると外を見る。強い日差しに目を細め、夕べのことを思い出す。けれど、何も思い浮かばない。そこだけ記憶が抜け落ちていた。ただその体にけだるさだけが残っている。
「俺たち、一体何したんだ…」
　横になって天井を見たままカルサートが呟く。
「…お前もか…？」
「……わかんねぇんだ。だけどあいつの目が、怖いほど、虚ろだったことだけしかおぼえてない」
「虚ろ」
　うめきもしなければ泣きもしない。ただ無表情のまま。自分たちが近づけば近づくほど、あの女は壊れていっている。
　二人がかりで彼女の心を千切りとり、いつか、千切り取れるだけの心がなくなったとき。…けれども、それでも彼女は微笑むだろう。自分を貪った男たちに、最高の笑顔を向けるだろう。シリアとは、そういう女だ。
「さすがに今回は…馬鹿なことをしたと思う」
「そうだな…。お前がそんなこというの、初めて聞いたよ」
「なんだよトミー。俺だって本当に反省するときには、………反省するさ」
「…そうか」
　自虐的な笑み。けれど二人はわかっている。反省をいくらしようと、自分たちはシリアを貪った。その事実は消えない。

「シリアのカレ、紹介してよぉ」
「アーリってば…」
　今日の仕事が終わり、部屋に引き上げようとしたとき同僚につかまった。
　本当は今日、睡眠不足のせいで仕事どころではなかった。けれどそれを表に出したらアーリにからかわれるに決まっている。だから表向きは平然といつものようにしていた。
　そのせいでとんでもなくつかれている。食事もしたくないほどだ。が、アーリは言い出したら聞かない。
「…なんで私の周りって、こんな言い出したら聞かない人ばっかり集まってくるんだろ…」
　声に出さずに呟くとアーリと一緒に部屋に向かった。
「ちょっと、まってて」
　アーリを廊下に待たせて部屋に入る。同僚はトミーを恋人だと思っている。しかし、部屋にはトミーだけがいるわけではない。
「カルスに、風呂場にでもいてもらうようにしなきゃ…」
　いくらなんでも二人を合わせるわけにはいかないし。頭を振ると、中を見まわした。
「あれ…暗い」
　今日一日、男たちから何の連絡もなかった。それは多少は気になっていたのだが。
　電気をつけると、机の上にメモがあった。
『先に帰る』
　二人の署名があった。
「………」
「シリアー、まだー？」
　廊下からアーリの声が聞こえる。
「ごめん。なんか、先に帰っちゃったみたい」
「えー？残念ー。それにしても薄情ねー」
「…そう、そうね」
「…でもさ、あたし、今日も彼のとこに…」
「いいよ。行ってきなよ。アーリ、いっつも合えないーって、ぼやいてたもんね」
「さすがシリア。話がわかる」
　にこっと笑うと彼女は廊下の向こうに歩いていった。それを見送り、戸を閉めるとシリアはシャワーも浴びずベッドに倒れこんだ。きれいにベッドメイクされた寝台は、男たちが思っていたより早く出ていったことを示している。
「……」
　考えない。考える暇なんかない。寝ないと、死んでしまう。寝れば、少し落ち着く。それを繰り返せば、忘れないまでも、記憶を薄れさせることができるから。私は今まで、そうやっていろんなことを乗り越えてきたんだから。
　そうやって自分に言い聞かせる。いつもなら、そのまま寝ただろう。けれど今日は一人だった。何ヶ月かぶりに一人だけだった。
「…眠りたいのに…ただ、眠りたいだけなのに…」
　体はつかれて、休養を欲している。しかしそれに反して、頭はいろいろなことを考える。考えたくないのに。
「どうして、私…」
　あんな風に体を差し出す気などなかった。最近特に、自分の意に反して行動しようとしているのに気がつく。これは一体何なのだ。
　どこかが狂い始めている。トミーの思いを知ってしまった日から。カルサートの熱を感じてしまった日から。彼らの声が、手が、体温が、シリアの回りから離れない。
「…ああ」
　心の奥は泣いている。けれど、涙は凍り付いていた。どこにも行き場のないうねりは心の中を暴れる。
「オーウェルを想ったときは、こんなにいたくなかった…」
　痛い。どこもかしこも痛い。鈍い痛みが、彼女を苛む。そして、そのまま動かない。
「こんな恋愛、嫌だ」
　もっと優しいものじゃないのか。多少は苦しいだろうけれど、心はもっと穏やかになるものじゃないのか。
「私は何をしているのだろう」
　本当はいったいどうしたい？本当は、ほんとうは。



　遠くで声がする。
　そちらを向けば愛しい女がたっている。
　でも声は遠い。
　ためしに名を呼んだ。
　彼女は気がつき、笑いかける。
　けれど女を腕に抱きとめることはできず、霞をつかむよう。
　遠く、遠く、遥か遠くに。

「はぁっ！」
　全身が汗だくだった。どうも泣いたらしく、目が腫れている。
「…」
　ベッドから下りて水を汲み、一気に飲み干す。まだ深夜だ。
　ここのところ同じ夢を見つづける。なにか、とても悪い予感。そして、こういう予感は得てして良く当たるものだ。
「シリア…」
　トミーはそっと手を見た。この腕は彼女を捕らえ、抱いた腕だ。柔らかい感触はまだ残っている。守りたい。自分のそばにいてくれたなら、もっと守ってあげられる。包んであげられる。そして。
「…所詮、俺も男だな…」
　ぎゅっとこぶしを握り締める。
「…抱きたいことは、偽れない」
　けれど、一度だけ見たシリアの涙がちらついた。

　同じ頃、同じように夢を見て、カルサートが目を覚ましていた。長い髪が汗にまみれた体に張りついている。
「嫌な夢だ」
　窓から月明かりが差し込む。あの日、この明かりはシリアの体をより白く見せた。そして、より儚くも見えた。三人いたという異常な状況がよりそれを助長したのかもしれない。
「なんであいつは…俺だけのものにならないんだ…」
　なんでトミーまでいるんだ。俺だけの、俺のものであって欲しい。どうして伝わらないんだ？
「……あいつが、欲しいよ。もっと、もっと。傷つけたくは、ない、けれど」
　体中を駆けぬける独占欲。あの丘でシリアを抱いて。以来ずっと体の中に居座っている。あの日いえなかった言葉は、今だに言えていない。
「間に合わせじゃない。…きっと」
　ほんの少し、自信がなかった。

　夢を見ていた。甘い夢。幸せな夢。けれども、叶わない夢。
「…ふう」
　資料と写真とのにらみ合いもいい加減飽きてきた。しかし、この間の調査で出たものをまとめなければならない。デスクワークが嫌いな彼女にとっては、苦行以外の何もでもなかった。
「明日までって、ひどいよね…。昨日戻ったばっかりなのに」
　時間がないが仕方がない。無理に許可を取って出かけていったのだ、それぐらい我慢しなければいけないだろう。
　仕方なくもう一度ファイルを開いたとき、乱暴に戸が開けられた。
「誰！？ノックぐらいして…カルス？」
　驚いてそちらを見れば、白衣の男。
「……」
　少し赤い顔。開けたときと同じように乱暴に戸を閉める。
「乱暴にしないでよ…。ここ、安普請なんだから」
　文句を言いながら扉の調子を確かめる。
「…で？なんなのよ。……ってあんた、酒くさいわね。何考えて昼間っから呑んでんのよ！？」
「…」
　赤い顔のまま仏頂面になる。
「弱いくせに何で呑みたがるのさ…」
　腕組みをして机に座る。
「何の用事？明日までの仕事抱えてるんだから、早く、手早く！」
「俺は、お前がわからねぇよ」
「は？」
「この間のことだよっ！どうして…なんであんなことができたんだ？」
「そんなことの為に、ここに来たわけ？」
「そんな、こと？」
　考えれば考えるほどやりきれなくなった。酒を呑んだって忘れられない、流せないやるせなさを抱えて、彼はここに来たのだ。それなのに。
「何でそんなことが言えるんだっ！！」
　思わず彼女の首に手をかける。
「どうして、どうして！お前は！平気な顔であんなことができたんだ！？」
「くうぅぅっ！」
「俺の心、どうしてあんな形で裏切れるんだっ！！」
　荒い息を吐きながら手を放すと、シリアはその場に座り咳き込む。
「……はぁっ。……あんたの気持ちなんて、わかんないわよ。人の心なんか読めない」
「だからってあんな」
「ねえ」
　立つ男を見上げる。その瞳にちらつくのは、微かな怒り、か。
「あなた、本当に、私が平気だと。…そう思ってるの？」
「……」
「私が誰とでも、おなじことを繰り返すと。本気で思っている？」
　服の埃を払いながらたちあがる。
「だって、そうでも考えなけりゃ、説明、つかないだろうが！？」
「…本当に、私のこと、わかってくれてないんだね。長い間一緒にいるって、そこまで相手が見えなくなるのかな」
「なんだって」
「わかったよ。ねえカルス。あなた、単に自分の思い通りにならないから怒ってるだけ」
　それだけ言うとあきらめの微笑を浮かべた。
「怒っているだけ…？なんだよ、どう言うことだよ」
「自分の気持ちでしょう？私より、あなたの方がわかってる。認めたくないだけ」
　それ以上言わなかった。カルサートがいくらたずねても、体を揺すっても、シリアはただ笑うだけだった。あきらめと、ほんのわずかな怒りを込めて。

モドリマス