「けほっ、けほっ」
絞められたのどの調子がまだおかしい。鏡は見ていないが、この様子だときっと跡が残っているだろう。
「…むちゃくちゃだよ」
シリアは立ち上がってカルサートのために休む場所を作る。
「……寝ていきな。そんな調子じゃ、物研、いくらあんたでも入れてくれないよ」
「…」
「私は気にしないから…。仕事するし」
「シリア」
咳き込みながら分厚いファイルをどけるシリアの手を取った。そのまま、彼女が空けた場所に引き倒す。
「ちょ…」
「…おまえも、俺のことわかってない…」
だから、わからせてやる。おまえの体に、おまえの心に、俺を、わからせてやる。
「やめてっ！」
酒くさい息がかかる。気持ちが悪い。逃げようともがき、積んでおいたファイルが落ちる。
「放してっ、お願い！」
「違う…」
「何が、何が違うのよ！？」
「俺は…」
ただおまえが欲しくて、とても欲しくて、…どうして、欲しい？
「あ…」
一瞬頭をよぎった考え。まさか。そんなことはない。だから、今はこのまま、ここで、この女を。
「ねえ」
下から覗く瞳と視線が合う。
「……私って、何？……道具？…あなたの欲望を満たす、手っ取り早い…」
掴まれた肩には男の爪が食い込む。けれどシリアは言葉を止めなかった。
「今まで、何人の女の人。……こうやってめちゃくちゃにしたの…？」
「お前…俺のこと、そんな風に思ってたのか？」
暗茶の眼に暗い炎が灯る。
「道具…？道具だと？……」
シリアのあごに手をかけ、頬を力を入れて掴む。
「もしそうなら……こんなに悩まない………お前がそう思うなら、そう望むなら。今からお前は、俺の道具だっ！」
「や…」
何か言おうとした瞬間、頬が熱くなった。次いで、鈍い痛みが襲う。
「……」
「お前が、そう望んだんだろ？」
哀しい。女は、男の暗い炎の奥に、癒されない哀しみを見た。そしてその原因は、自分にある。どれだけ言葉を紡ごうとも、どうにもならない。
しばらく研究室にシリアは姿をあらわさなかった。フロントで聞いても知らないの一点張り。リテやジェイに聞けば教えてくれただろうが、なぜかそこまでする気がなかった。海辺の発掘現場の件が頭にまだしっかりと残っている。
「一体どうしたんだろう、あいつ」
トミーはファイルを見ながら、ぼんやりと考えた。
「最近、休みとか多いよな」
外は雨で、窓際の彼の席からは外の暗さがよくわかる。まるで自分の心のようだ。
窓についたしずくが落ちる。幾筋も、幾筋も。窓に映った自分の顔が重なり、彼が泣いているように見えた。
「…泣いているのは、だれだろう…」
わかりきった答えだ。窓に手を触れ、情けない表情をした自分の顔を覆う。次第に凍り付いてきているシリアの心。自分とカルサートがそれを促進させている。
「…俺は、暖めたいけど」
なぜ、だろう。考えても、考えてもわからない。今までそんなに縁のなかった、恋愛という感情。持て余しているのは確かだ。
「何でこんなことになったんだろう」
よくある三角関係のはずだ。女がどちらかを選べば済む話だ。そうすれば、多少軋轢は残るが、こんな不安定な状態からは開放される。多分、カルサートも同じような気持ちだろう。あの日、帰りがけに見た彼の表情は、自分が時折するものと非常によく似ていたから。
「良くも悪くも、俺とカルスはよく似てるんだろうな」
頭を掻きながら外を見る。変わらず雨は降りつづけた。雨の季節はまだ続く。
雨がようやく小康状態になり、少し晴れ間が広がるようになった頃、シリアがまた研究室に姿を見せ始めたことを知った。逢いには行きたいが、この間の一件がひっかかって気が進まない。けれど、ここでほったらかしにしておけば、ますます気まずくなる。
まずいまずいと思いながらも考古学研究室には近寄れなかった。が、彼が本を返しに図書館へ行ったとき、見なれた姿を見た。
「シリア…」
一瞬逃げようかと頭をよぎる。が、先に見つけられた。
「あれっ？久しぶりね」
妙に明るい。
「今日は何の本を借りたの？…返しに来ただけ？」
「ああ…期限が今日までだったから…」
「図書館で逢うのも久しぶりね」
入り口でたわいのないことを話していたが、通行の邪魔にならないようなところに行き、
「……俺…聞きたいんだけどさ…」
と、シリアの手を取った。
「一体ここんとこ、どうしたんだ？」
違う。聞きたいのはこんなことではない。でも言葉が出てこない。
「ああ。ちょっと研究室の階段から落っこちちゃってね。リーアせんせのとこからいっぱい本借りてさ、下が見えなかったの」
「それって…おおごとじゃないか」
「そうかな。病院のせんせは結構大変そうに言ってたけど、別に…なんともなかったよ」
少し口篭もった気がした。それを逃すような彼ではない。
「…なにかあった？」
「あ、気にしないで。大丈夫」
気にするに決まっている。少しいらつきながら、やっと言いたいことが出てきた。
「なんで、お前は、そんな風にいつだって自分に無頓着で…俺やカルスに、何も言わずに……抱かれるんだよ？」
「トミー…」
掴まれた手が少し震えていた。シリアは少しだけ息を吐き出す。
「今更、どうしてそんなこと聞くの？」
「今更？今更だって？」
そんな答えは認めない。俺は、俺だけのシリアになって欲しいだけだ…。
当のシリアは困った顔で頭を掻くだけだ。
「そんなに、お前にとってどうでもいいことなのか！？」
痛いぐらいに手を握る。すこし女の顔が歪んだ。
「…だって」
柔和な表情。あきらめてしまった人間特有の。
「もう、ないのに、執着なんかできない」
「何が！？」
「……わからない？」
自分が責められている。なんだ？一体俺は何をした？
「………夢見てたよ、これでもさ…。でも、気がついたらなかった。守ってたもの、知らないうちに、なくなってた。自分がこの人と、って決めた人と、お互いを、思いあいながら…」
「あ……」
ようやく何のことか、思い至った。
「そのときから、どうでもよくなったの。それは、そういうもんだって、おもったから…」
「…俺か」
そうだ。俺なんだ。あんなやり方で奪って。考えている以上にシリアは傷ついてた。
カルスじゃない。俺が壊した。一番守りたいものを、一番はじめに壊した。もう戻らない。
「お前…俺は」
何か言葉をかけようとしても何も出てこない。唇がむなしく動く。
「気にしなくていいのよ。私が気にしてないから…もう」
そう笑いながら、力の抜けた男の手から自分の手を離した。
「じゃ、仕事あるから。用事があるなら、夜にしてね」
それだけ言って彼から離れる。
「シリア！」
思わず呼びとめた。振りかえる。
「俺は…お前が好きだよ。スクールであったときから、きっと、多分。ずっとお前だけを見てたよ。抱きしめたりするだけじゃどうにもならないぐらい、お前が好きなんだよ！」
今出せるありったけの気持ちをこめて。他に聞かれてもいい。
「うん……ありがとう…でも」
女は痛そうな笑顔だ。
「でもね。もう少し、早く言って欲しかったよ」
そしてまた研究室の方に向き、歩み去った。また空が曇り始めた。
「相談って何だ？」
地質学研究室のカフェでフロストと小さなテーブルを挟んで差し向かいに座るトミー。昼の休憩時間を利用してここに来ていた。
「あの…女性の話なんですけど」
「お前からそう言う話を聞くのは…初めてだな。…マッカードさんだろ？」
「…はい」
やっぱりなぁという表情でコーヒーを飲む。
「リテさんから聞いていたんですか？」
「いやリテは何にもいわない。ただ、おそらくお前が認識してる女性って言ったらリテかマッカードさんだろうし、それに噂もな」
聞けば、彼らの三角関係の噂は国家研究室群の中で地味に広がりつつあるらしい。知らぬは当人たちばかり。
「そうっすか…」
「なんでもファイリアス博士がお前とマッカードさんを二股にかけてるって言うじゃないか」
「！！」
飲みかけた水が喉に詰まりそうになった。
「な…なん、なんですかそりゃ！？」
息が整うまでかなりの時間がかかった。その間慌てふためくトミーをどこか面白がって見るフロスト。
「何って…お前らの噂だよ。そういう事になってる」
「違います！」
面白そうにいうフロストに必死で否定する。
「まあ落ち着け。噂なんてそんなもんだ。尾ひれがついて大抵とんでもないもんになる」
フロスト自身も恐らく根も葉もない、恋愛事の噂に悩まされたことがあるだろう。そのことを思い出したのか、苦笑する。
「…それにしたってなんちゅー無茶な噂だ…」
この研究室群にいる人々が、どれだけそういう変な話が好きかということを思い知らされたような気分だ。
「さすがにそれは笑えた。てか、あのフェイリアス博士って、どっちでも行けそうな雰囲気もってるもんな。バイセクシャルというかなんというか」
「何を言ってるんですか先輩…」
頭を抱えるしかない。フロストは普段至極まともな人間なのだが、時折こういった突拍子のない事をいう癖があった。
「冗談はこれくらいにしておいて、だ」
「頼みますよ」
「俺が見たところ、あの女性は恋愛事には疎いだろうな」
「どうしてそんなことが？」
「なんというか、そういう空気なんだ。恋人を積極的に作ろうとしている人は、男であれ女であれいくらかわかる。それが、彼女にはまったくないんだよ」
「そうだったんですか」
「お前もそうだな。だから興味がないのかと思っていた」
「そういうわけでも…ないんですけどね」
そっとため息をつく。
「まあ、そういうのを表に出さない奴だっているし、お前がそうだったって言えばそうなんだろう。…なんかやらかしたのか？」
「…ええ…まあ」
どこまで言ったらいいものか。一般の事情とはかなりかけ離れているこの事態を。
いいかけた言葉を飲みこみ、相談したかったことを代わりに言った。
「…自分から離れていきそうな女性を繋ぎとめるには、どうすればいいんでしょうか…」
「……」
フロストはトミーの目をじっと見た。
「そうか」
急に視線をはずし、椅子に持たれかかる。
「お前にとってマッカードさんって言うのは、自分の一生かけても逃したくない、そんな人なんだな」
「…」
無言で頷く。
「何をしたかは聞かない。聞いて怒り狂ってもしょうがないからな」
「ありがとうございます」
「マッカードさんは…何を望んでいる？」
「えっ？」
急な質問にどぎまぎする。
「トミー。女性に、自分の思いだけぶつけても、その人は離れていくだけだぞ」
「…」
「かといって、女性にどうしたらいい、なんて不粋な質問はするもんじゃない。その人の、本当を読むんだ。いつも見ているんだろう？たやすいとは言わないが、できないとも言わさないぞ」
フロストの話を聞きながら頭の端で思った。確かに自分は、自分の心を押しつけるだけで、シリアの気持ちを、彼女が本当に望んでいるのは何かなど、考えなかった。考えて、自分の存在を否定されるのが怖かったから。
「俺…逃げてるだけだったんですね」
「それがわかればたいしたもんさ。次は、逃げなけりゃいい」
にやりと笑うフロストが、この上もなく頼もしく見えた。
今回はいつものコワレ具合ほどじゃないと思うんですが
いかがでしょう？
それにしても書いていて
フロスト先輩の恋愛事件の方が気になりました（笑）
多分書かないでしょうけど（をい）