「声を…」
黙って横たわるシリアに触れる。
「ここには俺しかいないから。…俺とお前しか、いないから…。だからもっとお前の声……聞きたいよ」
「……」
女はそれには応じず、トミーの唇を乞う。重ねられた唇の下で、シリアの声は全て、消えた。どんなに願っても何もいわず、男のなすがままになるのだった。
「何にもいわないから、やっぱ俺は嫌なのかな…」
思い浮かべながらつぶやく。
「カルスとだったら…どうなんだろう」
一度だけ。あの狂った夜。うつろな瞳で彼らに唇を乞うた。恐らく何もいわないように、と。感情が外に出ないように必死な姿が、とてつもなく哀しかった。
「そうだ…。俺もカルスも。シリアの本当が見えてない」
目を閉じて何の抵抗すらしなかった。
何もかもあきらめたような笑みを浮かべていた。
身支度を整えているとき、わずかにその指が震えていたのは、彼の見間違いだったか。
「それだけじゃないな…。あいつを抱いた肩はいつだって震えて…」
怖くて。嫌で。それなのに何もいわずに…。
「わからない」
どう考えてもわからない。ただ一人、本気で愛した女のことがわからない。辛かった。
悩んでいるとフロストが部屋に戻ってきた。どこかの調査にでていてしばらく顔を出さなかったのだが。
「お帰りなさい、先輩」
「ああ。どうだ、あれから」
「それが…」
口ごもるトミー。女のことを知れといわれたものの、何もわからないままただ無為に時間が過ぎている。
「…今ちょっとうわさ聞いたが、マッカードさん、なんか仕事減らしたみたいだな」
「らしいですね」
カフェで噂話を聞いた。
「多分、この間入院してたっていってましたから…その加減じゃないですか」
「じゃないですかって…おまえ、知らないのか？」
「えっ？」
「仕事減らした理由。まあ俺もさっき総務で聞いたばっかりだけど」
「なんですっ！？」
立ち上がってフロストに詰め寄る。一瞬気圧されはしたものの、トミーの耳にささやく。
「流産だそうだ」
「りっ…」
「あくまでうわさだ。まだ入院してなきゃいけないところだけど、無理矢理出てきたせいでそういうことになったとか」
「…」
「本当かどうかはしらない。知ってのとおり、ここはかなり無茶なうわさも平気な顔でまかり通るからな」
フロストの言葉など聞いてはいない。トミーは研究室を飛び出した。
「……やれやれ。思い当たることが、あるんだな」
困ったような表情でつぶやいたのは、もちろん彼の耳には入らない。
「あいつ…俺に一言も言わなかった…」
図書館であったとき、一瞬口ごもったのはこのことだったのだろう。勇み足でシリアの部屋に向かう。戸を勢いよくあければ、少し顔色が悪そうなシリアの姿。
「だからここの戸は壊れるんだからもっと丁寧にあけて…って、あ…」
文句など聞いている場合ではない。つかつかと部屋に入り、立ち上がるシリアに詰め寄る。
「本当なのか、うわさは！？」
「ほんとだよ」
表情も変えずに答えるシリア。肯定して欲しくなかった。否定して欲しかった。
「だって、私がそう言ったんだもん」
「何で！？」
「なんで、って…私ごまかすのすごく苦手なの。だから本当のこと。でも、ここの人たちなら…他のうわさがうわさだし、その方が都合がいい」
「何であの時言わなかった！？」
「言いようがなかったから…」
戸惑う気配すら見せない。きっと、聞かれたらこう答えようと思っていたのだろう。これ以上言った言わないで議論を続けていても仕方がない。
「……だれだ？」
「えっ？」
目を見開くシリアと、うつむいて声を絞り出すトミー。
「誰なんだ！？父親は！？俺か、それとも…」
「なんだ、そのこと…」
ここしばらくずっと彼女の顔に張り付いたままの、あきらめきった笑顔。
「わからないの。そんなこと知る間もなく、………いなくなっちゃった」
「わからないって…おまえそんなで…」
「いいわけないよ、もちろん。でもさ、本当にわかんない。……一番宿ったって考えられるころって…、めちゃくちゃだったから」
気がつけばカルサートかトミーの腕の中にいたのだ。同じ一日のうちで、そんなこともあった。そのことを思い出し、少し笑う。
「いつかこんな目に会うって思ってたからさ。別に、大丈夫だよ」
「どうして黙ったままでいたんだよ？」
「気がついたの、病院だったもん…なんとなく、と思ってたぐらいだし」
窓枠にもたれかかりながら続ける。午前の光が差し込み、表情がわからない。
「それに。…もっと早くに確信しても、それで言ったとしても。……何か、してくれた？」
「当たり前だ！」
「自分の子じゃなくっても？」
「……」
答えられなかった。自分の子どもなら、しかるべき手段を講じただろう。でも、そうでない可能性もある。そうでなければ。堕ろせ、と。
体が震えた。一瞬嫉妬に狂い、冷酷にそこまで考えてしまった自分が怖かった。
「ね？だからこれでよかった。これなら二人とも、傷つかない」
良かった。…良かった？いいや、良くない。絶対に良くない。もしかしたら、シリアの言うように彼らは傷つかないかもしれない。けれどシリアはどうなのだ？
無意識に近寄る。と、女は当然のようにシャツのボタンをはずし、白い肩を出した。
「やめろ…違う…！」
声を荒げて襟を合わせる。そのまま強く抱きしめた。
「…ごめん。シリア、ごめん…」
「どうして謝るの？そんな必要ないんだよ？」
明るい声。ことさらに、明るい声。
「……ごめん。俺バカだから、お前が望んでるもの…わからないよ」
「…」
それっきり、何もいえなかった。ただ抱きしめるしかできない。ここまでそばにいて、じっとしていてはじめてわかるほど小さく震えている。
「トミーは」
腕の中の女が動いた。
「あったかい、ね…」
何気なく発せられたこの言葉の裏に、シリアが見えた気がした。
「…お前は、寒かったのか…？」
遠慮がちながらも首は縦に振られた。
「そっか…。そうだったんだ…それだけで、良かったのに…俺は…」
沈黙。そして、トミーはいずれ言わなくてはならないと、ずっと以前から心に温め続けていたことを、シリアにささやく。上げた女の顔が歪んだ。
うわさの真相を確かめるべくこちらもシリアの部屋に急いでいたカルサートは、突然聞こえてきた笑い声にギョっとした。それが今から向かう場所から聞こえてくるとわかり、胸騒ぎがする。ついに、シリアが壊れてしまったのか。ずっと心配していたことが、現実になったのかもしれない。
「おいシリア、お前一体…？」
戸をあけると、腹を抑えながら笑うシリアと、あっけに取られてたっているトミー。
「…トミー？」
案の定というべきか、恋敵の姿を見つけて少しどきりとする。
「なんだこりゃ…？」
「わからない…。俺はただ」
「？」
「…プロポーズ、しただけだ…」
「！！」
少なからずカルサートは動揺したが、この様子では承諾したしないというより以前の問題だろう。
「あはははははーっ！い、痛たた…！はははっ…いてて、お腹お腹…」
ソファに転がりながらお腹を抑え、狂気じみた笑い声が続く。男たちは笑い声を止めるすべがわからず、ただ突っ立っているのみ。しばらくして少し収まってきた。
「くすくすっ…。やっと…おさまっ…ふふふ」
笑いすぎで目の端に涙すら浮かんでいる。
「シリア…」
「大丈夫か…？」
「…あー、笑った笑った。久しぶりにこんなに笑ったわ。しばらく笑ってなかったから忘れてたけど、笑うって体力使うね…」
息を整えながら見回す。カルサートがいることに気がつき、手をふったりする。
「カルスもいるんだ、ちょうど良かった。呼びに行こうかって思ってたんだけど…。二人とも、ちょっと聞いておいてね」
一拍。
「私もう赤ちゃん、できないのよ」
どう反応していいのかわからない。言葉の意味は分かるし、何を示しているのかもわかる。けれど、そのことが目の前の女と結びつかない。男たちは放心するばかりだ。
「元からね、子宮の働きはよくなかって…、家系みたいだし。母さんはポリー生んでから子宮とっちゃったし、おばあちゃんも…ま、とにかくもともとから子宮に難アリの家系なの。きっと私もそうだろうとは思ってたんだけど」
時折まだ笑いながらシリアはしゃべる。
「だけど堕胎って、本当に体にダメージよね。リテにもちゃんと教えておいてあげようっと。…とにかくそういうこと。本当は言うつもりはなかったんだけどね。けれど言うなら、二人一緒に知って欲しかったから、よかった。あとから聞いたら、感じが悪いものね」
「…どうしてそんなに…明るく言えるんだ…？」
気を取り直したカルサートが、かすれた声で聞く。
「だってさ、もうどうしようもない。悔しいけどそれだけは確かで、ちゃんと受け入れないといけない。私に子どもができないのは、嘆いたって変わりはしないんだから。絶対にね」
そういって、黙り込んで立っているトミーの方を向く。
「というわけでごめんなさい。謝らないといけないのは私。トミー、あなたじゃないわ。私はもう、あなたの言う家庭なんてもの、作れない。あ、あなただけじゃないの、他の誰とも。…女として、欠陥なの。そして誰も、欠陥品なんか欲しくないでしょ？」
握り締めていた拳が細かく震える。顔をあげたトミーが見たのは、この上なく美しいシリアの笑顔。元から色白だった上に顔色が悪く、決して美しいとは無縁の顔だったはずなのに。もう何も考えられなくなり、部屋から飛び出した。
「トミーっ！」
後を追おうとしたカルサート。しかし、シリアも気になる。
「よかったね、カルス」
不意に笑いかけてきた。思いがけない言葉と笑みに心臓が跳ねる。
「これで本当に、私はあなたの道具だよ」
「そっ…それでいいのかよっ！？」
「あなたが望むなら…それでもいいって、言ってくれるなら」
確かにカルサートは、この場所でシリアを道具として扱い、そして抱いてしまった。けれど、だからといって本心からそう望んだわけではない。あのときのシリアの言い方があまりに痛かったから、あまりにも彼の神経を逆撫でしたから。彼の心を傷つけてしまったから。
「ちがう…」
座っている女に近寄り、なお何かを言おうとした唇を塞ぎ、貪った。けれど、それ以上できない。できるはずなどない。体を離し、逃げるように部屋を出て行った。
しばらくぼんやりとしていたシリアだが、思い出したようにシャツのボタンを留め、身支度を整えた。手櫛で髪を梳きながらつぶやく。
「これで、おしまい」
いずれ二人は自分から離れていく。それはわかっていた。今回のことはきっかけだ。そして、いつまでも二人をとどめておきたがっている自分への罰だ。自分には彼らに愛される資格などない。もっと早く決断しなくてはならなかった。
「ジェイ…」
机の上の写真に目を落とす。自分の、たった一人だけの息子だ。
「シリア姉ちゃんはバカで不器用だから、………一番大事で、絶対に手放したくなかった人たち、なくしちゃったよ…」
数ヶ月ぶりに蒼の双眸から涙。
誰よりも愛した二人がいた。どちらかを選ばなくてはならないと理性が忠告し、どちらも手放したくないと心が叫んだ。離れていって欲しくないから、彼らの望むまま体を預けた。
シリアは、行動は時々常軌を逸しているところがあるが、いたって常識人である。このため、二人と関係を持ち続ける今の状態が耐えられなかった。それを押さえ込まなければ生活できなかったのだ。
「…愛された証すら、私にはできないんだ…」
気丈な女の涙は終焉。もう心を押さえ込む必要がなくなった証に他ならなかった。
シリアというキャラクターを作ったときから
なぜか子どもはできないという設定がありまして…
ちなみに初出は高校のころ
あのころはすさんでたなぁ
作者自身の子宮もどうもろくなもんでないらしいし（核爆）
前回もいいかげん重かったですが
今回の方がやっぱり重くなったですね
…ここで止めていいっすか？
ダメ？ダメですよねー
はい、ちゃんと最後まで責任持ちます