天涯孤独の女がいた。
居場所を探して探して、見つからないまま彷徨う女がいた。
その体は冷え切り、無意識に温かさをも求める。
「……寒いのは…嫌だね」
肩を抱きながら震えるその顔。
けれども、差し伸べられた二組の手は、彼女が望む物を与えてくれなかった。望んでいないよといおうにもいえないまま、行き着くところまで行った気がする。
「例えて言えば、雨の中に立ってる人に壊れた傘を差し出すようなもの、かな」
降り続く雨を見ながらそんなことを思った。方向性は違わないのだが、根本的に間違っている、というような。少々腹部は痛いが、毎日少しずつ治る兆しがあるのはうれしい。早くもとの生活に、もとの仕事量に戻したい。あの膨大な仕事があってこそ彼女が抱えるいろいろな悩みをうだうだ考えずに済むのだ。
「姉ちゃん、これ食べる？」
ジェイが先ほどから台所で何か作っていたが、窓際に座っているシリアに声をかけてきた。手にもった皿にはおいしそうなタルトが乗っている。
「やった。じゃ、ひとつもらっちゃいますか」
「味に自信はないけど…。塩と砂糖と間違えてたら、ごめんね」
「それは凄まじい悲劇になりそうね」
くすりと笑いながら一口。口の中に甘い味。
「うん、いける。これなら今すぐお婿さんにだしても大丈夫」
「お菓子作れるぐらいでお婿さんに出されても困るんだけど」
苦笑しながらもまんざらでない様子。口ではああいいながらもかなり自信作だったのだろう。
「じゃ、もうちょっとお茶淹れてこようか」
「僕がする。座ってて」
彼が気を使ってくれるのはうれしかった。けれど、少しだけ、悲しかった。
「だーかーら。どうしてお前って奴はそうなんだよ」
「なんだなんだ、人の家にあがりこんで開口一番それかよ」
雨宿りでトミーはカルサートのマンションに乱入してきていた。
「別に開口一番文句いう気なんかなかったさ。お前の今までの言動にあきれただけだ」
「なんか言ったか？」
機嫌が悪そうに返す。
「なんかって…ほんと、なんか他人事なのなお前。どうしてそう、なにかするたびやたらと強引なんだ？」
「俺の性分だ。２７年これでやってるんだ、今更変えられない」
「そりゃそうだろうが…」
それ以上何もいう気になれないと黙るトミー。殺風景な部屋に沈黙がおりる。
帰ってきて開けた窓からはしばらく雨の音だけが響く。
「…なあ、客になにもださねぇのか？」
「なんでお前にモノださなきゃならねぇんだ。…なんか欲しかったのか？」
「違う！」
実はなんかありつこうとしてただろう。そういう視線を向ける男の頭を怒鳴りながら殴った。
「イテーッ！」
「客が来たらなんか出すのは常識だろっ！」
「…お前さ、最近手が早くないか？」
「誰のせいだ、誰の」
だめだ、と頭を振りながら腕組みする。
「やたらと俺に絡むじゃねーか」
「…そうか？」
意識していなかったが、確かにそうかもしれない。原因は…わかっているがあえて触れる必要もなかろう。
「おめー、子どもみたいだな」
「余計なお世話だ」
お前だって同類だ。そう思いながらそっぽを向く。その様子を見て肩をすくめる。
「子どもっぽいのは俺も一緒。すぐ手に入らないとかんしゃくを起こす…」
どんなに無茶をしようと、シリアの心は彼女だけのものなのだ。最初から分かっていたはずだし、シリアも訴えていた。それに気がつかないふりをして、こちらの言い分を通そうとしたツケが今だ。
それでも俺たちは。
常にシリアのそばにあり続けたい。今なら分かる。二人はこんな風にして、あの女のそばにいたのだ。いつの世であっても、どんな立場であっても。どれほど昔か分からないが、彼らが二人に分かれてからずっと。付かず、離れず、見守っては傷つけ、手を伸ばしては届かないこの距離で。
「くやしいなぁ」
「そうだな。何の因果で、あいつしか駄目なんだろうな」
「お前なら選り取りみどりだろ？研究室群で一番有名人だし。俺なんか、先輩があんまりにも美形だから、うちの研究室には先輩しかいないみたいに言われてるんだぞ」
「そいつはお気の毒だ」
立ち上がって冷蔵庫から冷やしてあるワインを出してきた。グラスを二つ持ってにやりと笑う。
「開けてるやつだが、行くか？」
「…そうだな。久しぶりに、悪友と飲むのもいい」
研究室の扉が軽く叩かれた。戸を開けると少し緊張した顔のトミー。
「…なあに？」
「いや、あの、その。体は…大丈夫かと思ってな」
「うん。まあ大丈夫。そんなに心配するほどのことじゃないから」
「またそんなことを…いいか？もっと自分って奴、大事にしろよ。お前一人の体じゃ、ないだろ？ジェイのためにな」
「…そう…そうね」
無意識のうちにおなかをさすりながら呟く。それを見ながら落ち着かなさげに頭を掻く。
「でまあ、何しに来たって…この間の返事をもらいたくて、な」
「この間？」
首を傾げる。
「ああ。この間。あの時の答えは無効だぞ」
しばらくの間をおいて何のことか思い出した。トミーの求婚だ。
「…なにも私じゃなくても…」
資料を強く抱えながら身を硬くする。
「何回も言わせるなよ…」
少し赤くなりながら続ける。
「俺は、お前じゃなきゃダメなんだ」
「…」
その真摯な瞳。どきりとする。心が跳ねる。けれども、もとから誰とも結婚などする気はなかった。その気持ちは今でも変わらない。たとえ永遠の愛を誓われようとも。
「……私。いっつもね、あんた達のこと二人一組で呼びつけるけどね。…いつだって、同じだなんて思ったことなかった」
「？」
見当違いとも思える言葉に不思議な顔をする。
「同じだなんて…ただの一度も。もしかして、もともとは同じだったのかもしれないけれど、そんなこと関係なくて、今私はそうおもうの」
「…」
「だから…どっちか、じゃなくて、やっぱり二人いて欲しい、って言うのが本音。一番ワガママだね、これ」
快活に笑う。
「もう何年かしたら、もしかしたら変わるかもしれない。この、私にとっての距離。でも今は変わらないの。何をしても」
「…何年かしたら」
「もっとも、そのときにはきっとあなたにはもっといい人いるよ」
私じゃなくていいのよ。私は今のままでいい。もう、求めないから。
「…ばーか。何年かした程度でいい女が出て来るってんなら、とっくに見つけてそっちに行ってたよ」
腰に手を当て、あきれて笑う。
「そんなのどうか分からない。それに…そこの下で、びしょぬれになって心配してる奴もいることだしね」
「んあ？」
くすくすと笑うシリア。そっと机に近寄り、開けっ放しの窓から下を覗くとびしょぬれのカルサートと目が合った。
「んなっ、おいカルス、何でこんなとこにいるんだ！」
「…うるせ」
不機嫌極まりない顔をして立ち上がり、そのまま行ってしまった。
「ね？いたでしょ？」
おもしろくてたまらない、といったような声。
「知ってたのかよ」
「うん。あなたが部屋に来たぐらいからいたみたいね。ちらっと見えたから」
「あの野郎、人のプロポーズなんか聞くなよ…」
口を尖らせて頭を掻く。
「…これが、私の答えだから。あ、トミーだけじゃない。もちろんカルスにおなじこといわれても、同じように返す。他の、誰とも」
「…一人で、ジェイを抱えて、……罪を背負うのか？」
「さあ。そんなことは分からない。でもね、私の人生にとって、二人ともかけがえのない、代わりのいない人たちなの。こうなったら…どっちか選んじゃったら、どっちかいなくなるか、どっちか爆発しちゃう。それに…私も、ね」
抱えていた資料を机に置き、椅子に座る。
「悔しいなぁ」
「えっ？」
「悔しいのよ」
「なにが」
「あんたたちに出会わなければ、他の人と結婚する気になったかもしれないのに、悔しいなぁ」
言い換えれば、どちらかでないと、あるいは二人以外に、もうそばにいて欲しくない、ということだ。
結局、彼ら三人は微妙にずれながら、同じことを思っていた。ずれの理由がわかったなら、これからは。
「というわけで、私はお仕事しに行くね」
「お前の仕事場はここだろ？」
「残念。今ね、学芸員もやってたりするわけ。その関連で博物館までいかなきゃ」
「博物館？ここのか？」
「うん。助手の助手だけど」
にこりと笑って立ち上がった。
「…仕事しすぎだ。ちったぁ休め」
「休んだら私が私でなくなるから」
微笑んだその顔は女の顔。ついこの間までの子どもの笑顔ではない。どきりとして、一瞬後に自分がそうしたのだということに思い至る。不思議な色気が出始めているのだ。
「……」
トミーをその場においてさっさと博物館のほうに行ってしまった。
「鍵…かけなくていいのか？」
ふと思ったが、恐らくこの研究室内でシリアの荷物に手をつけようなどと思う人間はいないだろうと思い直す。
無言で窓に近寄った。
「いつまでそこにいるんだ」
「…」
「引き返してくるなよ、お前って奴は」
「いいだろ、別に」
びしょ濡れのカルサートが小さく言い返した。
「…今、なんていったの？」
「だから、お前のアパートに引っ越したって」
呆れか、驚きか。開いた口がふさがらない。
「な、なんで」
「引越ししたかったから」
「そうじゃなくて、どうしてよ」
「ここに空き部屋があったから」
「…一回、本当にあんたたちとは話つけないといけないわね…」
「何でつける？やかんアタックはやめてくれよな。あれは一方的にこっちがやられるだけだから、話し合いにならん」
「…」
無言で玄関においてあった鋼鉄製の、当たったら痛そうではすまないようなやかんを手に取る。
「うわ、待て待て待て。カルス、お前はどーしてそう余計なことを言うんだよ」
「性分だ」
「…シリア、やってくれ」
頭を掻きながらトミーがうめいた。そんな二人をみて、何もいえないと肩をすくめる。
「何の理由があってここに引っ越してきたのよ。しかもダブルで！」
「…いやー、近いほうが何かと便利かな、と」
「うんうん」
「…なにが便利なのよ」
あまり深く考えないようにしようと決めた。この男たちの行動に理由を求めるのが間違っている。
「ってなわけでこれから晩飯とかたかりに来るから」
「……」
持ったままのやかんを構える。
「来なくて結構！」
「ぎゃーっ！」
「お前、もう余計なこというなーっ！！」
これから。二人のどちらかを選ぶのか。それとも他の人を見いだすか。あるいは、ずっとそのままなのか。どの道が正しいのか、シリアには分からない。ただ、アパートはそれまで以上ににぎやかになるだろう。そして、どの道を選ぼうと、彼らは共に歩いていくだろう。
天地がある限り、永遠に。
とりあえずこれで終りますですはい
最初からこうなるとは思っていたんですけどね…
まー、考えていろいろ行動しましょう、ということで
って、いままでぐだぐだと書いてきて言うことはそれかっ！
どちらか一方だけとともに在る、というのが想像できないんです
これから後どうなるかは……