５．High hope high smile

　開けっ放しになっていたドアの傍に誰かがいるのは知っていたが、少々気分が悪いリテはそれどころではないので気にせずにいた。けれど気にしないままではいられなかったようで、その人影は彼女のところへ仕方なく、といった様相でやってきた。
「リテさん、ちょっといいかしら？」
「なんでしょう？　ええと、考古学の経理課の方ですよね？」
「ええ……」
「？」
　中年女性はどう言おうかと決めかねている様子。だがそれほど長く悩む事はなく再び口を開く。
「シリアさん、どうされてます？」
「シリア？　多分家にいるか、スクールで臨時講師やってるか、外の博物館で学芸員やってるか……」
「ですよね……はあ、出張シーズンなのに……」
　シリアと出張シーズン。確かに通常営業であればそろそろ学会が多くなってきたり、学生たちのことで時間を取られなくなった講師兼任の研究員たちが現地調査に出たりする頃だ。だがそれとシリアとがどうつながるのか、いまいちリテには分からない。
「一体どうしたんです？　何がなんだかもう……よくわからないんですが……」
「リテさんになら話してるかもしれませんが……」
　溜息をついて話し始めた。その内容に驚愕したリテは、シリアによろしくと言われ女が出て行ったことにも気付かなかった。
「おいみんな、とりあえずの回答が出たぞ……ってリテ？　どうした？」
　書類を持って部屋に戻ってきたフロストは妻が固まっているのに訝しげな表情をする。
「フロスト……あ、ごめんなさい。後で話すわ。どうしたの？」
「そうか。調子悪いなら言えよ」
「ええ」
　リテが頷くのを確認して持っていた書類を配り始める。手に渡った人間の眉がすっとひそめられた。その流れがあまりに見事だったのでフロストも眉をひそめてしまった。
「先輩これって」
「ああ。直轄からの暫定回答だ。今後話し合いの場を持つとは言うが……」
　書かれていたのは淡白な文章。ただとにかく予算をカットするという、前々からの発表と大して変わらない。
「結局おれらの質問に何にも答えてないじゃないか」
　誰かが悪態をつき、続いて何人かが同じように書類に対して文句を言う。が、すぐにそれも収まった。
「俺の出した書類もそこにあるから見てくれているだろうが、この間皆で話し合ったとおり、予算カットについて納得行く事由を希望する旨を送った。結局それに対して何らの点も触れられずになおざりになってしまった」
「決して非正規な手続きじゃなかったのに。……何か、変な気分」
「リテの言う通りだが……俺達は正規手段で訴えないといけない。そりゃ確かにこの研究室群の人間が本気を出せば、正規不正規ありとあらゆる方法で糾弾可能だし革命も起きそうだが」
　にやりと笑うフロストに一同の空気は和む。
「だがそれは最終手段だ。ユーフィースが焦土になってしまったら研究も何もあったもんじゃない」 　一呼吸置き笑った口元を引き戻す。
「一度非正規に走ってしまうと一般の人から俺達はもう二度と信頼してもらえない。それだけは決してしないように」
「わかりました！」
「はい！」
「じゃあ次は向こうから話し合いの日の通達があるだろう。それまでに不審な点や質問したい事項をまとめておいてくれ。よろしく頼む」
　憤るもの、やる気が出たと飛び出すもの様々だがやがて室内は静かになった。フロストとリテ、そして常駐組数人が残っているだけである。
「……みんなすごいわねえ。やる気十分ってところかしら。私も頑張らなきゃ」
「リテ、さっきどうしたんだ？」
「え？　あ、ああ……」
　どう言ったものか。先ほどの経理担当もきっと同じように思っていたに違いない。そんなことを思いながら出だしの言葉を探る。
「先輩どうしたんですか？　この後質問条項練るって言ってたのに全然来ないから呼びに来たんですが……って失礼しました」
　ひょいとトミーが顔をだした。そして話の相手がリテだということを見て取ると回れ右し始めた。
「あ、トミー君か。貴方なら別にいいわ、一緒に聞いててちょうだい。私もさっき聞いたばっかりでどう言っていいのかわからないけど」
　そう前置きして瞼を伏せる。
「あの子、みんなの出張費肩代わりしてたんだって」
「えっ？」
「……どういうことだ？」
　男二人が驚くのも無理はない。普通そんなことは出来ないはずだ。
「ウチ……考古学研究室にお金がないのは知ってるでしょ？　正直な話、国内の調査だとお金がでないことがほとんどなの。海外はさすがに、立替とはいえ後から入るけど……だから国内調査研究対象者で、この出張が多くなるシーズンだけシリアがこっそり貸してたんだって。ある時払いの催促なしってやつ。法的問題は色々あるんでしょうけどその辺は蛇の道は蛇というか、よろしくやってたらしいわ」
「……」
「でもさ、リテさん。なんでシリアはそんな金持ってるんだ？」
「月伝承特別費よ。『予言の書』の専属解析やってるから。前はコルグ先生のところにも行ってたらしいけど断ったって聞いた。だから今ウチで余剰にというか、研究室通さずに費用が出てるのはシリアだけ。ああもう……フィールドワークいけてないってぼやいてたけど、そういうことだったのね……」
　リテにシリアのことを聞きに来たあの経理の女性が唯一、考古学研の経理課で事情を知っているらしい。他の人に言わないでくれと言われたのでそうやっているという。研究員の殆どがそういうやりとりがあることを知らない。リテですら初耳だった。
　シリアが出ていた費用を室長につき返しはしたが考古学研の経理課を通さず、直接研究室群全体の資金の流れを統括する出納課に話を持っていった。経理を通すと室長のところに行きそうで怖いと呟いた事を思い出す。なのでリテは経理の女性にその旨を伝えた。一応フロストの話の間にシリアに連絡も入れてある。
「それは……確かに、他所に洩らさないほうがいいな。国立の機関が個人の資金を当てにしているというのはよくない。マッカードさんもその辺りを理解して君にも秘密にしていたんだろう。俺も黙っている事にする。トミーもいいな。彼女だけじゃなく研究室全体が窮地に陥りかねない」
「は、はい先輩」
「この場合どういう名前が付くのか俺はよく知らんが、立場を変えたらよくある話だろう？　収賄だの贈賄だの」
「そうね……」
　まさか内から爆弾が出てきそうな事態になるとは。苦味きった表情でフロストは押し黙る。
「……地室も大して金があるわけじゃないけど……考古研の困窮具合は少しおかしい」
「……先輩？」
「フロスト……」
　渋い顔をする男に嫌な予感がひしひしとするリテ。フロストはただ黙って考え込むばかり。
「……考古研の資金の流れって……分かるか？」
「多少なら。実績報告の冊子出してるから。そこにちょっと予算の話は毎年載ってたはず」
「すぐ手に入るか？」
「うん……多分部屋にある。どこに置いたか、ちょっと探さなきゃならないと思うけど……」
「なら頼む。あとは……俺とトミーで他に資料がないか少し当たってみるか」
「分かりました先輩」
　トミーは神妙な顔で返事をしリテは頷き自分の研究室に向かう。しばらく使っていない研究室は冷たく、体の奥底から寒さを感じた。
「……シリアのバカ！　相談くらいしてよ……」
　なぜ何もいわないのだ。なぜ一人で抱え込むのだ。自分もここの一員で予算の問題には関わってくるし、何より自分はシリアの親友ではなかったのか。
「どうせ言うんでしょ！　迷惑かけたくなかった、って！　それが嫌なのよ！」
　腹立ち紛れに書類棚から未整理の紙を一気に床に投げ出す。一瞬で床が紙の雪崩に埋まったがリテは気にせず奥から奥から掻き出して来る。
「ああもう……！」
　ついに棚が空っぽになった。当然床は紙でいっぱいで、一歩も動けない。
「……」
　その状況を見て少し冷静になった。次いで、驚きすぎて収まっていた気分の悪さが戻ってくる。なんでこんな日にこんな事実を聞かされなければならないんだと呟いて、床上の書類に手を伸ばすのだった。


　結局のところ、最終的には関わらざるを得なくなるとは思っていた。だがこんなに早くに、しかも爆弾のオマケまで抱えて、腕組みするフロストとリテの前で座る羽目になるとは思わなかった。
「……まあ、話はわかったが……考古研の経理担当も経理担当だが、君も君だ……」
「すいません先輩……」
　申し訳ない限りだとシリアは頭を下げた。
「もう一回聞くけど……どうして相談してくれなかったのよ。そんなに私は不安？　そんなに心配？　迷惑かけたくなかったとか、ふざけた理由以外で答えてちょうだい」
「リテ……」
　色々と痛く辛い事は多々あれど、親友にこう問い掛けられる事が痛い。言葉が音にならず喉につかえたまま、それでも彼女を親友だと思っていることを証明したいが為、目をみた。
「……」
「……」
　リテもシリアの視線を真っ向から受け止める。こうなれば意地だ。互いの思いが通じるまでの。
　だがフロストにはそこまで待てないようで、結局睨みあっているとしか見えない女二人の間に入った。
「一体君たちは何をしているんだ」
　呆れ妻とその友を眺める顔を見てどこかで似たような顔を見たなと思うシリア。少し考えて思い当たる。
「……地質学やってると似たような顔になるんだろか……」
「何か言ったかい？」
「いえいえなんでもないです」
　心の中で思ったことが外に出たらしくフロストが呆れ顔のまま聞いてくる。慌てて否定した。
「……まあいい。話を戻すが、少し調べたところ予算の流れは特にクロな部分はなかった。少なくとも表に出てくる部分では。だが、リテやシリアさんの話を聞いていると、予算額と実情が全く違うという事だな」
「絶対違うと思います。だったら出張費が出ないなんてありえない」
　言い切ったシリアの横でリテも頷く。
「もう少し他の人の意見も聞いてみたいところではあるが、それについて誰も気にしなかったのか？」
「それは……どうなのかしら」
「うん……聞かないけど」
「妙な話だ。考古研にお金がないのは他の研究室にも、大々的にではないにせよ噂は流布している。なのに誰も今までそれを気にかけてなかった」
「分からないでもないけどね」
　リテが肩を竦めた。
　予算は確かに重要なのだがそれ以上に研究ができればいいというものが多い。それに研究室にしか勤めていないものはおらず、大抵が兼業で講師をしていたり関連の企業に出向になったりしている。研究室に資金がなくともどこかしらから調達が出来ていたというのも、それまで言及がなされなかった理由なのかもしれない。
「俺は外からもっと辿れないか見てみようと思う。リテとシリアさんは、そちらの知り合いに聞いてみてくれないか」
「はい」
「わかったわ」
「もしもそこに何かおかしな流れがあるなら突っ込んだことが言えるかもしれないからな。その過程でシリアさんの資金の件もどうにかできるかもしれない」
　もっとも隠蔽する気はないがな、と疲れた笑みをみせた。

「リーアせんせ、今いいですか？」
『なんだ、マッカード君か。構わないよ』
　とりあえずリテが同僚を当たり、シリアは自分の上司に聞いてみることにした。だがコルグは現在ユーフィースに居らず、外国で行われる大きな学会に出席している。
「研究室の予算の話なんですけどね」
『ん？　ああ、こちらでもニュースになっているよ。結局君も巻き込まれたのか』
「まあそうなんですけど……予算は予算でも、ウチの予算のことなんです。先生は気にした事あります？　妙に開きがあること」
『……気にしなかった、といえば嘘になる。が……』
　基本的に歯切れのいい上司なのに妙に口篭もる。何かあるのかもしれない、と下腹に思わず力が入った。
『今は一人か？』
「はい」
『ならまあいいだろう。先に言っておくがこの話だけで動くな』
　少し間を空けまた話し出す。
『実は経理にその申請はしてみた事がある。あとは外部機関にも。役付きも副室長まで巻き込んで、な』
「……はい」
『結果はいまだ回答なしだ。改めて請求しようとすれば『以前にも同様の依頼を受けている、それが終わってからにしてくれ』とのお達しだ。依頼折をみて突付いているが』
「それって……外部もあんまり機能してないってことじゃないですか？」
　声を潜め、口元を抑えそっと囁く。
『それはどうかわからん。言い方が悪かったか。一応外部機関からの回答は戻っている。ただあまり突っ込んだところまで調査は出来なかったという話だ。君たち一般研究員に伝えられるまでの情報になっていない』
「……そう、なんですか」
　今まで殆ど考えていなかった自分の職場の事。実はそれほど磐石で清貧ではなかった、と。体が心から冷えていきそうだ。
『こんな事態になってより一層怪しくはなったが推測だ。絶対に先走らないように。私も戻ったらそちらに合流しよう』
「わかりました。ヴィンダース先輩に伝えて……」
　突然外から悲鳴が聞こえてきた。慌てて自分の研究室を飛び出すと、アーリやその他同僚がリテを抱えて飛び出してくるではないか。
「ど、どうしたの！？」
「リテが、リテが！」
　興奮し血が上っているアーリは「リテ」としか繰り返さない。これでは埒があかないので他に落ち付いていそうな人間を探す。
「どうしたの！？」
「リテさん……オレらと話してたら突然倒れて……」
「倒れた！？　何で！　って言っても仕方ないわね！　とりあえず先輩のところに行って来る！」
「お願いする！　オレたちは医務局にいるから！」
　同僚に任せ図書館へ走る。恐らくここにいるはずだ。
「先輩！」
　途中で考古研の室長が何かを言っていたような気がするがそれどころではない。会議室の戸を勢いよく開け放ち、あっけに取られている数人の中からフロストを見つけ出して引っ張る。
「先輩！　リテが、倒れたって！　医務局に連れてってもらってます！」
「何だって！」
　男の顔が青ざめる。そのままシリアを振りほどいて飛び出していった。思わず尻餅をついたシリアはその背を見送るしか出来ない。が、すぐに立ち上がって後を追う。
　医務局は図書室から少し離れているが気にせず走った。一体何があったのか。先ほどまで元気だったのに。嫌な想像しか頭を廻らない。
「シリアのバカ！」
　自分で自分の頬を叩き医務局の扉を開ける。先ほどとは違い勢いは殺すが気持ちは先ほど以上だ。すでにフロストが到着しており、考古研の仲間たちもちらほらいる。リテはベッドに横になっているが気は付いていた。
「……リテ？　大丈夫？」
「うん、ごめん心配かけて」
「先生……」
「問題ないだろう。少し疲れたのかもしれんな。が、一応きちんと見てもらいなさい。あんたが旦那さんかね。ゴタゴタしているのは分かるが、今は奥さんについて病院へ行きなさい」
「わ、わかりました……」
　誰かが表に車を回してきたようで、ほんの少しふらつきながらもリテは立ち上がりフロストともに出て行った。それを見送ってシリアは医務局の主に向き直る。
「本当に大丈夫ですか？」
　周りの同僚も身を乗り出す。
「ああ。持病も特にないそうだし危ない兆候は全くなかった。本当に問題はないだろう」
「良かった……」
　アーリは半泣きで胸をなでおろしている。もちろんシリアも。
「じゃあ休ませるだけでよかったんじゃないですか？　何で病院に？」
　誰かの問いかけに医務局員は軽く笑う。
「専門外だが可能性はあると思ってな。念のための確認だ。もしそれが本当ならあまり無理をさせてはならない」
　笑いながら言うのにそぐわない内容にシリアは眉をひそめる。
「あの人は旦那さんがいる。なら全く不思議じゃない話だ」
「……あ！」
　そういえばそうだった。すっかりその可能性を飛ばしてしまっていた。

　そして局員の予想は正しかった。