１１．Thomas Valis

「ふわぁぁぁ。こりゃもうダメだ。今日は集中力切れた」
「切れたときはやめた方がいいよー。元々あたしらは個人で研究してること多いからねー。集団で何かやるってなかなかないし」
　突っ伏しているシリアを文系仲間がぽんぽんとたたいていた。その周りを見るとメモ帳でおやかんが大量に作られている。
「ついさっき集中力が切れたってんじゃないなありゃ」
「ほっといてちょうだい！」
　別の仲間につっこまれて下唇を突き出す。
「やること終わってるんだからいいじゃないの」
「ならさっさと帰ったら良かったじゃん」
「家でも悩むからねー。こないだみたいにおやかんが山ほど家に出てきても困るしさ」
「……いや、ここに出てこられても困る……」
　聞こえないようにフロストがつぶやく。
「なんかみんな考えてるのに出て行くの悪い気がするし」
「んじゃあシリア、俺もでるから一緒にでるか？」
　書類を持ってきたトミーが声をかける。
「そうしようかな」
　みんなにじゃあねと伝え出て行くシリアの後について出た。外は暮れかかっており、少しずつ夜が訪れる頃。
「……シリア。お前、これからなんか用事あるか？」
「ちょっと早くに出てこれたから本屋さんでも冷やかしに行こうかなって思ってる。ま、おととい冷やかししたから大してラインナップも変わってないと思うけどね。どうしたの？」
「ちょっと……付き合ってくれないか？」
「ん？　別にいいよ」
　心なしか表情が変わった気がする。何を自分の顔にみたのだろう、この女は。自分が言い出すことをわかっているのかもしれない。そんなことを思いながら彼の車に乗って行き着いた先は、シティから少し離れた海の見える丘だった。
「ここならすぐ帰れるだろ？」
「うんそうだね。気持ちいいな、最近本気モードだったからさ」
　潮の香りが頬をなでていく。書類と画面の見すぎでこわばった体も頭もほぐれて行くような。シリアは堤の址で半分土に埋もれた石壁の上に座る。トミーは座らないが壁に背を預けた。
　しばらく波の音と風の香りを楽しんだ。少なくともシリアは。
　ややあって。
「俺、帰ることにした」
　最近ちまたをにぎわせているニュースの一つに、ヴァリスの会長が倒れて入院したというものがある。それを聞いたとき、トミー本人もどこかで覚悟をした。ただ現在研究室がこんなことになっていることもあり、またそれまでのこともあってなかなか連絡をとる気になれなかったが、先日やっと姉に連絡をし、入院先に顔を出した。どうあっても祖父、肉親の縁は切ろうと思っても切れない。
　これ以上ないというほどに両親にボロクソに怒られたが祖父の一声で落ち着いたのはさすがといえよう。ワンマンで会社を立ち上げただけのことはある。もちろん許されたわけではないが。
　何も言わないシリアに、ふと届いていたのか不安になったトミーは視線を上げた。そして息を飲む。きっと本人は気づいていないのだろう。けれどその表情はありありと強い哀しみをたたえている。
　きっと。きっとシリアは、たとえばカルサートと別離することとなっても同じ表情をするに違いない。そんなことは判っている。彼もカルサートも、シリアにとってかけがえのない存在なのだということは。そう思っていてくれていることがたまらなくうれしい。そして、さびしい。
　離れたくない。今のこの環境から。自分のやりたいことを、自分の好きな仲間たちに囲まれてやっていけるのに。今言い放った言葉を取り消したい自分を押さえ続ける。
「今の状態が一段落したら先輩に言うつもりだ」
「……研究は？」
「当面は凍結。そのうち誰かに任せるんだろうけどな」
「そっか……」
「……いつかは、できたらいいな」
「……」
　できるよ。軽々しい慰めをシリアはしなかった。世界最大のコングロマリット、その頂点に立つ男。いずれはそんな存在になるのだ。心無い慰めをしても不可能は可能にならない。
「お前にはいろいろ便宜図ってもらったよな。今でもすごく感謝してる。俺の後続研究者にも同じようにしてやってくれな」
「……うん。でもまあ、トミーだからしたって部分もあるからねえ。どうなることやら」
「ははは、うれしいこと言うなよ」
「あとは……研究室のみんなが路頭に迷ったら頼らせてもらおうかな」
「おう。あれぐらいの人間抱えられる。俺の権限で研究だけ出来るようにしとくから」
「あはは、あなたにお願いすれば一発かぁ」
「もっとも、俺の方が路頭に迷ってお前頼ることになるかもしれんがな」
「よし、じゃあおやかん磨きからね」
「それは研究と関係あるのか……？」
「もちろん。私の研究が滞りなく進むっていう大事な関係が」
　一通りくだらない冗談を言い合い、一通り笑う。それが静かに収まったあと。
「泣かないからね」
「うん？」
「絶対、泣かないもんね。トミーが一生懸命考えて、最後の最後に出した答えだから。笑って『行ってらっしゃい』って言うんだから」
　肩を少し震わせるが宣告どおり泣いてはいない。
「『行ってらっしゃい』って、言ってくれるのか……」
「もちろんだよ。……肉親みんないなくなってジェイしかいなくなって。そんな私を家族みたいに見ててくれた。カルスもリテも、あなたも。いろんなときに『行ってらっしゃい』、『お帰り』って言ってくれた」
「そんなに気にして言ってたわけでもないんだぞ」
「うん。でもさらっとそういうの出てくるのがすごくうれしかった。ほんとは泣きそうになるくらいうれしかった。恥ずかしいからここだけね？　カルスやリテにも言わないで」
「わかった」
　照れ臭そうにいう女にトミーも笑う。
「よし、じゃあこそっと盛大に送別会しなきゃ！　ひっさびさに超絶本気モードで料理するから覚悟しててちょうだい」
「その言い方だとものすごく恐ろしいクリーチャーが出来そうだ」
　茶化すと口を尖らせた。この変化は相変わらず、どの瞬間を切り出しても一つとして同じ顔が無いシリアの表情。たった一枚だけ撮れた笑顔を切り出した写真は彼の宝物だが、それ以上にこうやって過ごしたときの表情が最大の宝だった。
「じゃあなにか怪しいものが出来たらトミー担当ね。たぶんカルスあたりならそんなの作りそうだけど」
「ちょっとまて、あいつにも作らせるのか？　そりゃないだろ……」
　カルサートの料理は、普通に作ればおかしくはならない。普通に作ることが少ないだけで。前々から料理と実験を一緒にしているような節はある。彼が作るぐらいであればトミーの方がまだ普通の料理を作るくらいだ。
「トミーは一応は主役だから作らせたりしないよ、安心して」
「そんな問題でもない気がする」
　シリアは座っていた壁の上に立ち上がった。両手でバランスを取りながら空を見上げる。手を動かすその瞬間、瞳にかすかに浮いていた何かを拭ったようだが男は見なかったことにした。
「おいシリア、落ちるぞ」
「そのときはそのとき。さっき渡り鳥が見えたから気になって。渡りおやかんもいないかなぁって」
「渡り……なんだって？」
「渡りおやかん」
「……それはいないと思うが……」
　恐る恐るトミーも空を見上げる。が、鳥が飛んでいるだけでおやかんらしきものは見えない。内心ほっとした。常々カルサートとシリアの盛大なる大喧嘩に巻き込まれ流れおやかんが飛んでくる彼にしてみれば、こんなときまでおやかんの餌食になりたくないというのが本音だ。
　が、結局別のものが飛んできた。
「わっ！」
「！」
　案の定、シリアがバランスを崩した。目を見開いた女がトミーに向かって落ちてくる。ある程度予測はしていたのでなんとか抱きとめ、ついでに怪我をしない程度に丘を転がり落ちる余裕があったのは僥倖だ。
「……痛い」
「ご、ごめんトミー！　大丈夫？」
　覗きこむ女に力なく笑って手を振る。とっさの一瞬だったが抱きかかえたシリアの体は柔らかかった。
「本当にごめんね……。すぐどくから」
「いや、いい」
「……？」
　怪訝そうな顔をする女には答えず、退こうとするその体を捕まえた。そのまま、シリアを体の上に固定する。どう思われるだろうか。そんなこともちらりとよぎったがこれくらいの役得があっても構わないではないか。シリアもだまっている、それなら問題はないだろう。あとはおやかんがこの状況を察知しないことを祈るだけだ。
　幸いにしておやかんにつぶされる事もなくシリアに逃げられることもなく、変わっていく空の色を眺めることが出来た。不思議と心は落ち着いている。今ならもしかしたら言えるかもしれない。最近シリアの周りの男たちがどうにも不穏な動きをしているということも頭にある。カルサートとの連携の良さを見せられるのも辛いし、特にあの教授は危険だ。わざわざ深夜と言って差し支えない朝方なのにシリアに電話をしてきたと言うではないか。
「なあシリア。俺と一緒に来ないか？」
　ようやく男が発した言葉に。
「ん？　何、ヘッドハンティング？」
「いや……そうじゃないんだが」
　トミーの訂正を聞かずにシリアは考え込む。
「そうねぇ。お給料は普通でいいから、月におやかん五つつけてくれたら考えてもいいよ」
「！」
　まさか応じてくるとは思わなかった。何もわかってないにしても。おやかんはともかく。思わずシリアの方を向く。
「成立だぞ。いいんだな？」
「ははは、ホントにしてくれるなら考えてもいいよ。でもおやかん支給はねぇ」
「お前のためにおやかんルーム作っておくよ」
「おおっ！　それは素敵ね。かなり乗り気になっちゃうんだけど」
　見えていないがわかる。きっとキラキラと目を輝かせているだろう。対照的に渋面になるトミー。
「……お前さ……ほんっきで判ってないだろう」
　深い深いため息。
「失敬ね。判ってるわよ。新社長は今まで放蕩してたから風当たり強くて居心地悪いからせめて一人くらい知ったの入れておきたいって話でしょ？」
　ああ。やはり通じていない。なぜそういう方向に行くのか。わざとじゃないかと思ってしまう。
「ぜんっぜん違う」
　普段はスルーだがこればかりは強く否定させてもらおう。自分の矜持が関わっているのだ。
「そうなの？」
「……」
　トミーが起き上がるとそれを枕にしていたシリアも起き上がった。なんだろう、と不思議そうな表情でこちらを見つめてくる。その視線に呑まれそうになりながらも見つめ返す。相変わらずな瞳。何もかもを呑み込み包み込む海の蒼。自分が愛しくてたまらない瞳。
「お前さ、こんな状況でヘッドハンティングとか言うか？　それがよくわからん」
「だってそう思ったんだから仕方ないじゃん」
「お前らしいといえばらしいが」
　ふと頬が緩むのが判った。自分は笑っている。これこそがシリアだと。そう確信したから。
「俺の妻として、来てくれないか？」
　するりと言葉が出た。シリアの反応を見るがいまいちよくわかっていない。
「……」
「ずいぶん前からもう決めてた。お前しかいない」
　シリアは何もいわない。じっとトミーを見つめている。トミーも笑いかけた。ゆっくり、言葉を選びながら思いを乗せる。
「おやかんや研究、ジェイの次でいいんだ。お前にとっての俺のプライオリティ。それはたぶんお前の中で変えられない順位だろう。それでいい。そのお前をずっと想ってた。……たぶん、初めて会った時から」
　顔が赤いのは夕暮れのせいだろうか。それとも違うのだろうか。シリアの様子は変わらず。少し照れ臭い。
「そんなわけでどうだ？　三食昼寝とおやかん付き。ついでに旦那もついてくる」
「……誰？」
「俺」
　いつか似たようなことを言った。あの時は冗談としか受け止めてもらえなかった。今も冗談としか受けてもらえないのかもしれない。でもあの時と違って今は不機嫌になることもない。過去の自分より今の自分。少しだけでも強くなったと思える。
「……」
　次第にシリアの顔が本気で赤くなってきた。これはどうやら太陽のせいではないようだ。薄っすらと汗もかいている。
「シリア？」
「……」
「どうしたよ、おい」
　あまりに沈黙が続くので不安になって覗き込むと、シリアは完全に固まってしまっていた。


「おかえりー……ってトミーにいちゃん？　って、ね、ねーちゃん！」
　戸を開いたジェイは目を回しているシリアを背負うトミーに面食らった。思わず何を言っていいのかわからなくなり、とりあえず状況を聞く。
「ど、どうしたの！？」
「いや……固まっちまってうんともすんとも言わなくなったから。放置するわけにもいかないし」
　どこまでジェイに話していいのかと考えたが結局事実だけを伝えた。話を聞いたそのときのままで固まってしまい、何をどうしても動いてくれなくなってしまった。
「あ、ごめんにいちゃん、中入って」
　玄関先で話し込んでいたことに気づきあわてて中に入れる。そもそもシリアが前後不覚になって帰ってくるなんてジェイにとって初めてだ。トミーが人事不省に陥っているところは何度か見たことがあるのに。おかげでジェイとしては調子が狂って仕方がない。
「とりあえずソファに寝かせとくぞ」
「うん、ありがとう」
　ジェイはタオルを水に浸しに奥へ、トミーはいつも客間に置かれているソファにシリアを下ろす。顔にかかった髪を避けてやりながら肩をすくめた。
「これなら冗談って流してくれたほうがよかったかもしれない」
　いったいどんなに妙なことを言ったのだ、自分は。ため息がこぼれるのだった。