海風に吹かれて １
ヘッドフィギュアにしてはどうも間抜けだ。いや、この船にはちゃんと、女神の船首像はついている。
「サメっ…！サメいるってほらほら！」
情けないがきれいな声で下から悲鳴が上がった。
船首に蓑虫のようにぐるぐる巻きにされてぶら下がっているのは男だ。長い髪がさわさわと風に揺れている。さきほどから彼の足の下で黒い尾ひれがうろうろしているのだった。
「頼むよーっ、上げてくれぇ！」
「うるさいなぁ。あなた、自分が一体どういう立場に置かれているか、わかってる？」
小型のナイフをきらめかしながら女の声。
「切っちゃうよ」
楽しそうだ。切られてたまるかとばかりに吊られた男はわめく。
「ダメだダメだっ！俺はそんな死に方したくないっ！」
「もう…わかってないわね。切っちゃえ。船長からもいわれているし」
先ほどから宙吊りで唸っているこの男は、実は密航者である。吟遊詩人という触れこみで乗船した彼、確かに歌は上手く、彼の歌声を聞きながら夜を明かしたことも一度や二度ではない。しかし抜き打ちの乗船パスチェックに挙動不審となり、結局密航であることを白状した。
海の上、どこにも逃げるに逃げられずつかまり、そして見せしめの為に船首から吊るされているのだった。
「どうせ日が落ちたら海に流すことになってるもの。それが少し早まるだけじゃない」
「勘弁してくれよぉ」
涙声で訴えてくる詩人にあきれ、女はナイフを仕舞った。彼女はシリア。この船の見習クルーだ。
「あなた、なんで密航なんかしたの？あなたの腕前なら、どこだってパスを買えるぐらい稼げるでしょうに？」
「いや…もったいなかったから…」
「あっきれた…。世の中ってけちな人がいるのねー」
「…」
髪を掻きながら頭を振る。と、視界の端に何かがひらめいた。
「？」
身を乗り出す。船だ。
「でも、なんか変」
真っ黒な船体。そんな船はこの海域に一隻もなかったはず。
「！」
こちらに向けられた砲門が見えるころ、それがなんなのかがはっきりとわかった。
「船長！…か、海賊船！！」
船長室に駆けこんで事の次第を報告した後、また船首に戻ってきた。
「じっとしてなさい、上げるから！」
宙ぶらりんのままの詩人を引き上げるためだ。
「ふいーっ」
「あのままサメに食われるほうがよかった？」
「冗談」
苦笑いする男にウインクをする。
「さ、早く船室に行って。あなたの船室はそのままにしてあるから。船長に見つからないようにね」
「いいのか？」
「この騒ぎが終わったらまた吊るのよ」
「…海賊に連れ去られた方がマシだな」
体のあちこちをまわす男をその場に、彼女の受け持ち場所に走る。途中、武器部屋に寄って長剣を持つ。
「これを使うのは…初めてだけど」
できればそんなことなどないほうがよかった。けれどそう言うわけにもいかない。乗客の安全が先だ。
「来るなら来なさい…」
震えそうになる足を叱咤し、客室に続くドアの前に立つ。ここから三等、二等、一等客室に続くのだ。つまり、ここが落ちたら三等はおろか、上流の客まで危険な目にあわせることになる。
「…」
汗で握った柄が滑りそうになる。カツン、カツンと音がする。
（見えた！）
見たことのない顔。黒いマントをつけ、腰には大きな剣が携えられている。年は若そうだが、その瞳は鋭い青年。
「…お客様、乗船券はおもちでしょうか…？」
「ん？…残念ながら俺は…まっとうな客って訳じゃない。「招かれざる」って接頭詞がつくな」
「……それではお帰り願えませんでしょうか……？」
精一杯の虚勢を張ってシリアは海賊と向かい合う。
「さすが船の乗組員だ。どんな時にでも紳士的に対応する…と、あんた、女か。…ふうん。これは失礼」
「……」
海賊の顔が楽しそうにゆがむ。と、シリアの視界からいきなり消えた。
「！！」
一瞬のうちにバスタードソードを抜き、ひらりと舞い上がったのだ。シリアも剣を抜き、落ちてくる切っ先を慌てて受け流す。シリアの剣は細く、男のものは太く重い。それに体重と重力加速度が加わっている。いくら受け流しやすく作られているとはいえ、手がしびれそうになった。折れなかったのが奇跡だ。
「ふぅっ！」
「…やるね」
すさまじい速さで攻防が始まった。幾度も繰り出されるシリアの突きは全てかわされる。たまに横なぎにしてみるがそれも防がれる。必死になって攻撃を続けているのに対し、男は表情に余裕があった。
「くっ」
もう一度突きを繰り出そうとしたその瞬間、視界の端に、海賊たちに囲まれた詩人の姿が眼に入った。
「密航者！？」
気がそがれた。それを見逃すような海賊ではない。彼女の剣を跳ね上げ、切っ先をのど元につける。
「セイラーさんよ。あんた、いい腕してる。けど、戦ってる最中によそ見してたらいけないぜ」
「私…っ、剣なんて、振るったの初めてっ…」
絶体絶命の危機に晒されながらそれでも毅然とした瞳で男を睨みつける。
「へぇ…。初めて。それはすごい」
純粋に感嘆した。
「そんな…事より！あの人…っ！」
視線で詩人を指す。
「放してあげて！私はどうなってもいいから！」
「自分の心配より、他人の心配か」
「当たり前じゃない」
冷や汗を流しながらも彼女は男をにらむ。切っ先がすこし彼女ののど元を傷つける。
「おいトミー。それぐらいにしておけよ」
「…そうだな」
トミーと呼ばれた男はバスタードソードを引く。
「え…？」
「ま、見てのとおりだ。あんたが心配した男、心配なんか無用だよ。俺の親友だ」
「そういうわけ。でもトミー、もうこの手段やめようぜ。今回、本気でサメに食われるかと思った」
「文句言うなよ。手下を潜入させるわけにもいかないし、かといって俺が離れるわけにもいかないからな」
「ちぇっ」
詩人と海賊はグルだったのだ。おそらく詩人が内偵し、ころあいで海賊が襲う。そうやって生きてきたのだろう。
乗りこむのに乗船券を買わない理由もわかった。途中で降りるからだ。それに高額の券を買うのは、たしかにもったいない。
「…最低だ…」
シリアはそっとつぶやく。私はどうなってもいいと、自分が先ほど吐いた言葉が頭の中を回る。この後の、自分の行く末は想像に堅くない。この男たちの慰み者になり、そして、殺される。
「そんなの、…嫌…」
せめて汚される前に。そう思って近くに落ちていた彼女の剣に手を伸ばす。が。
「おっと」
一瞬の差で海賊に剣を踏まれた。
「勝手に死んでもらっちゃ困る。俺たち、義賊なんだ。だから殺しはしない。結果的に死なせたこともないさ」
にやりと笑う。
「義賊…？こんな一般船襲って何が…」
「おや、気がついてなかったんだ。この船は、もうずいぶんと長い間密輸に使われてる。密輸船だよ」
「密輸…？」
「そ。おかしいとは思わなかったか？」
まだ下っ端で、客室の整備などの仕事はろくにさせてもらえなかったが、確かに思い当たるようなことはある。いかにも、という客も何人か見かけた。
「上流の乗客は全員裏の息がかかってると見ていい」
「全員…？」
驚きながら、船長の顔を思い浮かべた。彼女の身の上を聞き、苦笑しながらも雇ってくれた男の顔。そのことだけを思えば密輸船だなんて考えられない。
「船長はまあ無関係さ。パーサーがちょっとな」
彼女の考えていることがわかるのか、そんなことをトミーが言う。
「嘘…」
「嘘じゃない」
冷淡に告げられる声。
「…ふむ」
興味深そうにうなだれるシリアをみつめる。
「お前。さっき『私はどうなってもいい』っていったよな」
「…」
ついに来た。シリアは身を固くする。
「よし。俺たちと、一緒にこい」
「えっ！？」
「嫌とはいわせないぜ」
はっとして顔を上げたシリアに、にやりとわらいかけるトミー。構造も何もわからない海賊船ならそう簡単に逃げ出せない。そこに連れこまれて、恐らく。
「よっと」
彼女を抱え上げる。男の力は強く、女性の中では大きめの彼女を軽々と持ち上げた。もがいてもびくともしない。
「あんまり動くと海に放り込んじまうぞ」
楽しそうな声がする。
甲板には海賊船から繋がれたロープと、いくつかの荷物と、シリアと同じ船員たちがいた。
「俺ら、殺しはしないんだ。だけど生きていかなきゃならねぇ。だから荷物を少しと…この女、もらっていく」
そう告げると細いロープ上を揺らめきもせずに渡っていく。
「船長！せんちょぉーっ！！」
声を限りにシリアは叫んだが、それに応えるものはいなかった。涙目になって訴えるが、かつての仲間は動こうとしない。
「…せん、ちょう…みんな…」
確かにみそっかすだったのはわかってる。なんにもできないのに無理矢理雇ってもらったのだ。そんなことぐらい承知している。それだから必死で働いて、少しでも皆の負担を減らそうとしてきたのだが。
「嘘だよ…ね」
海賊船の甲板からいそいそと離れていく船を見、たとえようもない絶望を感じた。