海風に吹かれて １０
木が爆ぜるぱちぱちという音。
「…ん……」
「気がついたか」
ぼやけた視界が焦点を結ぶ。少々勢いのない火の向こうに誰かが座っていた。
「…あ、あの…」
「しばらくじっとしておいた方がいい。受身を取ったのか、崖から落ちた割にはそんなにひどい怪我はない。軽い打ち身ばかりだな、もっともそんなに高い崖じゃないが」
聞きながら手を動かしてみる。足も少し伸ばしてみる。どこにも痛みはない。
「どうもありがとう…」
起き上がりながら相手を見て声が詰まった。銀色の髪。
「起き上がらない方がいいと思うが…」
こちらを見る目は心配しながらもどこか冷たさを感じさせる。
「…あなた…は？」
「私か？私はここが気に入っているんだ。街の中より、ここの方が落ち着くから」
「…そうなんだ…」
男はシリアから視線をはずし、弱々しい炎に枯れた枝をくべた。
「しかし、珍しいな。女性がこんなところにくるなんて」
「まあちょっと…暴走して」
くすりと笑う。
「私、シリアって言うの。…あなたは？」
「私は…人からはマイスターと呼ばれている」
やっぱりそうだった。でも彼がここにいるということは、ここは無人島ではないのだろうか。二日前に出発した街が近いのだろうか。
「ここは本土から少し離れた小さな島だ。他に人は多分いない。もっとも、すぐに戻ることはできる」
「そうなんだ」
「考えるのはいいがシリアさん、ちゃんと毛布をかぶった方がいい。風邪を引くぞ」
「え？…あっ」
着ていたはずの衣服が木の枝に渡されたロープにかかっているのが見えた。
「川におちたからな。あまり流されてはなかった。けれど、そのままでは風邪を引くから、失礼とは思ったが」
「…ありがとうございます…」
尻すぼみになりながら自分に掛けられていた毛布を引き上げる。
しばらく草が風に揺れる音と、木が燃える音しかしなかった。やがてマイスターが口を開く。
「あなたは変わっているな」
「えっ？」
「普通、こういう状況であれば、女性ならもう少しうろたえると思ったのだが…」
「そうかも…。でも、脱がすときに見たんでしょう？」
無表情のまま顔を動かす。
「なら、今更きゃー、とか言っても遅いじゃない」
「…変わっているな」
「変わってるのはあなたも一緒だと思う。こんな美人な女の子が隣にいるのに、なんとも感じてないみたいじゃない」
いつものように冗談を飛ばしてみた。反応は期待していなかったのだが、彼は少し笑っているようだ。こちらに向ける眼鏡の奥の視線も、心なしかやわらかくなった気がする。
「襲われたいのか？」
「うーん、…今更綺麗な体なんていえないけど、ちょっと遠慮する」
「そう言うと思ったから、こうやって火をずっと見ている」
「…なるほど」
妙に感心してシリアも火を見た。勢いが弱いのは、雨上がりで枯れ切っていた枝が湿気を含んでいるためだろう。消えそうになるたびにマイスターが枝をくべた。
何も言わずシリアは空を見た。海の上とはまた違った星空。嵐の後だけに、いっそう空気が澄んでいるような気がする。
「何で私は、この人とここにいるんだろ」
ふと思った。
トミーやカルサートの言葉を信じれば、この男は冷酷非情で頭の切れる、超一流の暗殺者だ。けれどもシリアの目には、孤独な人間でしかない。もっとも、孤独な人間だからこそ、そんな汚れ仕事に就けるのかもしれない。
星を見上げながらそのまま後ろに倒れた。マイスターがこちらを見た気配がする。
「…ねえマイスターさん。あなたって、人嫌い？」
「多分そうだろう。私はどうも人は苦手だ」
「私も？」
「かもしれない」
即答されたが別に嫌な気はしなかった。そういう風にしか生きていけない人間だっているのだ。無理に自分の価値観を押し付けるつもりはない。
彼女も人嫌いなところがある。普段明るく振舞うのは、自分の本当の心の中を悟らせないためだ。
「きっとこの人も、いろんなこと今考えてる」
黙ってじっと火を見ているその瞬間にも、いろいろなことを深く深く考えているだろう。
炎の音と風の音と、何かの動物が立てる音。わずかに波の音も聞こえてくる。星の明かりに照らされた雲がゆっくりとした速度で動く。
何で私はここにいるのだろう。
答えの出ない問いが頭の中を去来した。こうやって邪魔されずに思索するときには必ず出る問い。もう何年も答えを探し続けて、それでも見つからない。
「…星が、綺麗」
単なる独り言。無意識のうちに発せられた言葉。彼女自身の記憶にすら残らない。
「そうだな」
反応があって驚いた。実はシリア、マイスターがいることを忘れかけていた。それぐらい彼は人としての気配を感じさせない。顔をそちらに向けると眼鏡をはずしたマイスターが空を見上げていた。
「眼鏡なくても見えるの？」
「伊達だ。一人しかいないときや…仕事のときは掛けていない」
「どうして？」
「……私の視線は普通の人に恐怖心を与える。変に怖がられると生活がしにくい」
「人の視線が集まっちゃうもんね」
確かに視線は鋭い。けれども、昔もっと救いようがないほど冷たく凍りついた視線を浴びたことがある。それに比べれば、彼の視線はまだ優しい。
「あなたは、私の視線を怖がらないんだな」
「少々のことは耐えられるから。それに母さんが言ってた。人と話をするなら、その人の目を見なさい、って」
「…」
また火に目を落とした。こんなにまっすぐに人に見つめられたのは何年ぶりか。彼は、彼自身も驚いたことに、少し戸惑っていた。
この女性は、一体なにを思っている？
今までよく分からない種類の人間と幾度も出あった。けれど、彼女ほどわからない人間は初めてだ。けれど、誰かに似ている。
シリアは夜空を見上げる。始まる静かな時間。
そういえば最近、こんな時間なかったな。
基本的に孤独を愛し、静けさを好む人間なのだ。財宝は見つからなかったが、この時間をまた自分のものにできたということだけでも収穫だと思った。
「そうだ、あの地図…」
頭をそっと動かすと彼女の服と一緒にロープに掛けられていた。暗くてよく分からないが、どうも描かれていた地図はほとんど消えてしまったようだ。
「ざんねんでした」
そっと肩をすくめて目を閉じた。何の心配すらない、深い眠りだった。
「ごめんなさい、一晩中起きててくれたのね」
「構わない。いつも、ここでいるときは一晩中起きているから」
着替えを済ませたシリアはマイスターに謝った。地図を見てはうっ、っとため息をついていると、
「その地図なんだが、そこに描かれている…いや、描かれていた島は多分もうひとつ向こうの島だろう」
と言われ驚いた。
「それを探しに単身乗り込んできたのだろう？」
「あはは。そうなの。すぐ見つかるかと思ったけど、間違えちゃってたんだ」
「あながち間違いでもなかったな。…では、私は本土に戻る」
「本当にありがとう。…ねえマイスターさん」
「なんだ？」
「マイスターって名前、どうして？」
「…いつのまにか、そう呼ばれていた。本名は、もう忘れた」
「そうなんだ……」
しばらく何かを考えていたシリアだが、顔を上げてにこりと笑った。
「どこかの国でね、マイスターってのは確か頭がよくて、学問を修めた人に与えられる称号だったと思うのね。一晩あなたと一緒にいたわけだけど、うん、そう、その称号に足る人間だな、って」
「私が、か？」
少し驚いたような表情をする。
「女の直感を馬鹿にしちゃ駄目。まあ、白状しちゃうけど、あなたのお仕事知ってるの」
「…そうだとは思っていた」
「なんだ、ばれてたんだ。じゃなくて、…ともかくそのお仕事をひっくるめて、マイスターって名前がふさわしい人なんだと思う。だから…ああもう、何言ってんだかわかんなくなっちゃった」
「ふさわしい、か」
ふっと、ほんの一瞬だけシリアに笑いかけた。すぐにまた氷のような視線に戻ってしまったが。
「あなたはあなたの道、ちゃんと進んでね。たとえそれが他の基準と違っていても。それが、あなたなんだから」
「……本当に、あなたは変わった人だ」
「よく言われる。でも…昨夜なんとなく悩んでるように見えたから。多分マイスターさんは人に自分の領域に入ってこられるのを嫌がる人だと思う。だから、余計なおせっかいでごめんなさい。じゃ、私は行くね。助けてくれてありがとう！」
いうなり駆け出した。それを見送ったマイスターは、昨夜の自分の問いの答えを見つけた気がした。彼女は似ている。彼自身に。
「あ、いました、キャプテン！」
見張り台に詰めていたトミーは傍らの見張りから双眼鏡を取り上げて見る。
「あんのバカ…手なんかのんきに振りやがって…」
「キャプテン、落ち着いて下さいよ…」
渋面の見張りを残してするするとマストを降りていく。
「ケルっ、面舵だ！」
「了解！」
船が旋回し、シリアが乗っている筏の方に向かう。接舷すれすれまで近寄り、上からロープが投げられた。
「ダメだよ、そのロープじゃ切れちゃう！」
「何でだ！？」
「ほら、これ見えないの！？」
彼女の背後には、重そうな箱が積まれている。少し口があいたそこからは金貨が見え隠れ。
「ひゅーっ！あいつ、やるなぁ」
「バカ、そんなこといってると、あいつを調子に乗らせちまうんだぞ、カルス」
「そうはいっても、もう遅いと思うな」
親友の言葉にうなだれる。彼の手下達は彼女と財宝を引き上げ、賛辞の言葉を浴びせかけ続けていた。
「…ああ…俺、これから何回こんな心配ばっかりしなきゃいけねぇんだろう…」
なんともいえない表情で深い深いため息をつくのだった。
続くはず