海風に吹かれて １５
「キャプテンー。またですか？」
マストの上で揺れる男を見て、ケルが情けない声を出した。
「あの人が上にいると、本気でこっちは迷惑なんですけど…」
「でもなぁ。下にいてもかなり迷惑なんだ」
「どうにかなりませんかねぇ」
「うーん」
下でそんな会話が平和に行われている頃、シリアは船底でぼんやりとしていた。普段誰もこないので一人になりたいときにはちょうどいい。
「あんまり部屋に鍵かけてこもるのもよくないしね」
本来鍵などあってはならない。海賊船に乗るものは基本的に平等でなければならない。自分だけの空間を持てる、鍵つきの部屋などないはずなのだ。
「でも、実際はあったのよね。よくわかんないや」
甲板の喧騒も聞こえない。よどんだ空気が少し苦しいときもあるが、それはそれでおもむきもある。しばらく目を閉じると、よりいっそう海に近づけたような気分になる。
ふと、目の前の木箱の上に見慣れないものがあった。今は荷物をほとんど売り払ったから、ここに残っているものは食糧がほとんどのはず。が、どう見ても食べ物とは思えない。
「…？」
近寄って手にとって見ると、どうも茶器のようだ。取っ手があって注ぎ口があって…。このあたりのものではないらしく、見慣れない装飾が控えめに施されていた。
「売らなかったのかな？」
しかるべきところに出せば恐らくよい値がつくだろう。
「…でも、いいなこれ。私…欲しいな」
メイドとして働いていた期間の給料でこれを買い上げてもいい。そんな風に思った。彼女はそれを手に持ち、交渉するため甲板へとあがっていった。
「だから、どうにかしましょうよアレ」
「分かってるが」
「こういうのどうです？船のへさきにくくりつけて」
「いや、それはちょっと疑われるだろう。せっかくの女神様も台無しだ」
「ですねぇ…。じゃあ、長いロープで後ろにくくりつけて、海の中を引きずりながらというのは？」
「…危なくないか？」
好き勝手にカルサートの処遇を考えているところにシリアがやってきた。
「一体何やってるの？」
「姐さん。アレですよ、アレ」
あごで揺れる物体を指してみせる。
「ああ、あれね。そんなの簡単じゃない。動けないように腱でも切っておいて、縛って猿轡して船底に転がしとけばいいのよ」
男二人は冷や汗を流した。
「あ…姐さん…」
「おい…お前の意見が一番過激だぞ」
「そう？まあそんなことよりこれ」
「なんだこりゃ」
「船底にあったの。よかったら、私に売ってもらえないかなって思って」
「ケル、こんなもんに覚えあるか？」
「いいえ…副長なら知ってるかもしれませんが」
「うーん」
「どうでもいいじゃない。私、これ気に入っちゃったのよ。紅茶入れるのによさそうだし。買うから、譲って」
「別にいいよ。出所が不明だし、金なんか」
「だめ。こういうのはけじめがいるのよ」
部屋に入って、ありったけの自分の財産を引っ張り出してトミーに無理矢理渡す。
「じゃ、晴れてこの子は私のものね」
にこりと笑って茶器を抱えて厨房へ行ってしまった。早速お茶でも入れるのだろう。
「あのわけの分からない迫力には負ける」
「キャプテン、今すごく姐さんに対して肩身狭いですしね」
「…ケル。お前、実は俺を責めてるだろ」
「そんなことないっすよ。さ、仕事仕事」
そそくさと行ってしまった。残されたトミーは釈然とせずに立っている。
「…おろせぇ……」
情けない声はもちろん詩人だ。その声を聞いて心の中が陰鬱になる。
あいつは…俺ができねぇことをやってのけようとしたんだよな。
結果的に未遂に終わったものの、つまりは夜這いをかけようとしたことになる。いいことだとは思わないが、問答無用でモノにするには手っ取り早い。
「いや、そんな手っ取り早い方法だとシリアは怒り狂うだろうなぁ」
複雑だ。とにかく彼は嫉妬していた。恐れ気もなく夜這いをかけようとしたカルサートにはもちろん、名前をちゃんと呼んでもらえるケルやセルバス以下他のメンバー、そして綺麗な体でなくてもいいと言ったというオーウェルにも。
「でも…こんなままだと、また横から掻っ攫われそうな気がする」
苦い思い出だ。憎からず思っていた女は、以前にもいた。けれど、突然現れた男に掻っ攫われた。
いや、そう表現するのは適当ではないだろう。彼が何かをいう前に女は離れていったのだから。本当なら、彼がいまだに持ったままの白い小さな飾りはその女のためだった。
「世の中は、思うとおりにはいかないよな、シリア」
エリザ。今はオーウェルの妻として、毎日を過ごしている。自覚するのが遅かったせいか、傷はそんなに深くはない。もうあまり思い出さなくなり、代わりにシリアのことばかり考える。
それでもまだ少し未練が残っているのだろう。
「しかし、何でまたあの女なんだろ。エリザとは全然違うのに」
剣を打ち合わせた瞬間も。彼らに囲まれて絶体絶命のときも。シリアはまっすぐトミーを見据えた。その鋭い視線が気に入ったのだろうか。
こうやって思い悩むところに、彼の海賊らしくないところがあった。
「シェフ、お茶にしない？」
「姉御が入れてくれたお茶か。それはいいな」
にこにこして料理長が椅子に座った。
「あ、俺も俺も」
「こらティム！お前今見張りだろ？」
簡易のお茶会を聞きつけた手下達が我も我も、となだれ込んできた。
「見張りほったらかしてくるのはあんまりよくないんじゃないの？」
「でも」
「あとで淹れてあげるから。お仕事はちゃんとしてね」
「了解！」
見張りは足取り軽く厨房を出て行った。
そうこうしているうちに湯が沸き、シリアは茶葉を茶器に入れて準備していたところにお湯を注ぐ。芳しい香が広がった。
「いい茶器ですね、これ」
「そう？すごく気に入っちゃって。船底にぽつんってあったんだけど、買っちゃった」
「買ったんですか？」
「うん。そうしないと私のものじゃないもん。気兼ねなく使うには、ね」
ニコニコ笑ってお茶を注ぐ。
「はい。プロのシェフにのんでもらうのは、少し恥ずかしいけど」
「いえいえ、うれしいもんです」
顔をほころばしながらカップを持つ。匂いを楽しみ、少し飲む。
「うん。おいしいですよ、姉御」
「本当？」
「本当ですって。うーん、こんなお茶淹れてくれる人俺にもいたらなぁ」
「お前には一生無理だ」
「なんだと、このやろ」
同席していた手下が言い合いという名のじゃれあいを始め、厨房はにわかに騒がしくなった。シェフはふと、茶器に目をやる。
「この紋様…」
「どうしたの？」
「いや、どこかで見たことがあるような気がして」
「？」
「…気のせいですかね。さ、お茶が冷えないうちにあたしが作ったお菓子も食べてくださいよ」
「待ってました！」
「副長、そういやあれ、一体なんでぶら下がってるんですかね？」
「さあ。私が朝出てきたときにはもうぶら下がっていたが」
「じゃ、夜のうちにキャプテンが吊ったんでしょうか」
「そうじゃないか？それより、風が出てきたな」
前ほど嵐にはならないだろうが、雨が降りそうな空気だ。
「追い風ですね。上手くすれば二日で帰れます」
「そうだな。少し手間取った」
「でも、その分稼ぎはあります。特にあの宝箱。姉御って、すごいですよね」
「いやまったく」
騒がしい厨房の方に視線を向ける。
「最初キャプテンが連れてきたときは一体どうなるかと思ったが…」
「あの呑みっぷりみたら、誰でも惚れますよ」
確かに、というようにセルバスは笑った。
甲板に少し冷たい風が吹いてきた。それとともに、へさきの方が明るくなる。不審に思った二人がよくみると、へさきの上に青白い炎が現れていた。
「！」
「…凶兆の炎…」
見張りも気がつき大慌てで降りてくる。空気の変化を感じ取ったものは全員甲板に集まってきた。
「一体…」
「まずいことでも」
「…どうしたの？」
「あ、姉御…」
暗い顔でケルはへさきの方を指した。そこには相変わらず揺らめく青白い炎。
「…」
見ているうちに、すっと消えてしまった。その後雨が降り始める。
「雨か…。嵐にならなきゃいいが」
「でもこの間ほどはひどくなさそうね。とりあえず飲料水は確保しましょ」
今見た炎をのことをずっと考えても仕方がない。それより、自分達ができることをするべきだろう。そう思ってシリアは提案し、海賊達もその案に乗った。少なくとも、働いていれば余計なことを考える暇はなくなる。
少しだけ強くなった雨にのって上から抗議の声が聞こえてきた。
「縄絞まってイテェーっ！」
「あ…忘れてた」
雨の湿気を含んで絞まって来たのだろう。そのままにしておくが、痛い痛いとうるさいことこの上ない。仕方がないとセルバスが降ろしにかかったとき、シリアが止めた。
「ちょっと黙らせてくるわね」
例の長い布を体に巻きつけてするするとマストにあがっていく。
「一体何のつもりだよ」
「黙らせるの」
短く答えて巻きつけた布を解く。
「だいたいみんな妙な炎見てぴりぴりしてるってのに、のんきに痛いなんていってるからよ」
「あんなもん、たいしたことねぇよ。乾いてるところで服脱ぐとばちばち言うだろ？あれと同じもんがたまって光ってるだけだってば。そんなことより降ろせーっ！」
「うるさい！」
聞く耳もたない、といった勢いで布でカルサートの口を塞いでしまった。
「むごーっ」
息はできるようにして容赦なく固く結ぶと、またするすると降りてきた。
「お見事です、姐さん」
セルバスに迎えられて、少し照れた。が、すぐに表情を引き締め、トミーのところに向かう。
「ちょっと誘拐者！」
「なんだよ」
困った顔で応じる。
「あれ！ほんと、どうにかなんないの！？」
「あれ…なぁ」
多分こいつ、昨日のことかなり怒ってるんだろうな。
そんなことを思いながら、どう言い訳しようかと考える。
「とりあえず、今度の航海に出るまでには考えるよ」
「…ほんとはあんたたち、人に言えないような関係なんじゃないの？」
半目でとんでもないことを言われてしまった。
「バカ！何でそんな方向に行くんだ！？」
「だってそう考えるのが自然じゃない！」
「そんなはずあるかっ！」
甲板で言い争いを始めた二人。が、他の海賊達は特に気にしない。もうこの二人の言い合いは日常なのだ。そしてケルは、すこしだけ、マストの上から吊られて濡れねずみで、文句すらも言えなくされた錬金術師に同情した。ほんの、少しだけ。