海風に吹かれて １６
雨は細かく降り続けた。船長の船室で、トミーは寝付けない。部屋は雨で寒いのに、どうしても身体が冷めないのだ。
「ダメだ、…冷やそう」
風邪かもしれないと思うが、とにかく冷やさないと眠れない。例の女装の一件から使っている、赤っぽい地のマントを手に取った。今まで愛用していたのもあるのはあるが、耐水性にも優れているのでこういうときに便利だ。何より軽い。それを羽織って部屋を出る。
見張りの持つランプがこちらに来た。
「キャプテン？」
「…少し寝れなくてな。…気にするな」
「はぁ…。まあ、風邪なんかひかないでくださいよ」
「ああ、お前もな」
「へい、姐さんにも同じ事いわれましたし」
「…？シリアが？」
「ああ、あそこにいます。俺が見張り交代する前からいたみたいです」
船首近くのランプの光の中、座っている女が。そっと彼女に近づく。
霧雨とはいえ、長く打たれればびしょぬれになる。少し長くなった髪がぴたりと皮膚に張り付いていた。
「……いつから？」
男の声に驚いてそちらを向く。
「びっくりした…。何か一言いってよ」
「そりゃ悪かったな」
「…祈ってたのよ」
彼女が初めて乗った船では、青白い炎が現れた時、誰かが一晩祈りを捧げる習慣があった。それを今でも守っているのだという。
「ほどほどにしろ…風邪ひくぞ」
もっと別の言葉が言いたいのに、喉に引っかかってでてこない。
「…でも、みんなのために祈らなきゃ。私のせいで、…帰るのが遅れた」
自分のために二週間も無為に過ごさせることになってしまった。まさか、待っていてくれているとは思いもよらなかった。ならいま自分ができることを。せめて祈りぐらいはささげなくてはと思った。
「…そうか」
しばしの沈黙。音もなく、雨は降り続ける。
「どうして」
不意に破られた沈黙。
「ん？」
「私なんかを待っていたの？しかも、何回も。そんなこと繰り返していたら、信頼なくなっちゃうよ」
「そうかな」
「船長のエゴっていうのが、航海では一番大敵よ。反乱を招くんだから」
「…俺に信頼があるかどうかはよくわからん」
あごを撫でながらつぶやく。しばらく考えていたが、シリアの眼をじっと見た。
「けどなぁシリア」
視線が真っ直ぐ彼女の瞳を射る。
「お前はこの船に愛されているんだ。この船クリスタルダイヴは、女を乗せるのを嫌ってたんだ」
「そうなの？」
戸惑いがちに聞く。
「すぐ病気になったり、怪我したりで…奴らが自分の女を乗せようとしたんだけど」
と、見張りのランプを指す。
「結局だめで、女は乗せないってのが暗黙の了解だったんだな。けど、彼女はお前を認めたんだ。それに、ケルやセルバスや…ほかの奴らも。カルスも。…もちろん、俺も」
「…え…」
もう両者には紡がれる言葉はない。ただシリアは呆然とトミーを見上げた。足元のぼんやりとした明かりが男を揺らめかせる。
そのとき、何かがトミーの後頭部に思いっきりあたり、バランスを崩した。それは偶然か本意か。支えを求めた手は彼女を引き寄せ、唇が女のそれを捕らえる。お互いの眼は驚きで見開かれ、今までにないほど近くで視線が交差した。
「……あ…」
「…」
驚いた顔のまま二人は唇をあわてて離す。けれど、彼女自身を離しはしなかった。それどころか、もう一度とばかりにトミーは顔を近づける。
「ちょ…や…」
またもその時彼に何かが当たった。バランスが崩れ、男の手から逃げたシリアは飛んできたそれを拾った。
「くつ？」
「…あいつだな」
頭をさすりながらいらだつ。が、その表情はすぐに消えてまとっていたマントをシリアにかけた。
「ほどほどにしろったって聞かないだろうから、これ貸してやる。風邪はひくなよ」
そういうと船尾の方へ行き、するするとマストを登っていった。そして、濡れたまま恨めしそうに彼を見るカルサート。
「…」
かかっている綱の隣にじっと座る。
「むごー」
仕方なく猿轡をはずす。
「おまえなぁ…靴投げることねぇだろ」
「ほかに投げるもんなかったしな。でも、役得はあったろ？」
「見たのか」
確かにランプのそばのシリアがよく見える。少し照れた。
「なら、なんで二回も投げたんだよ」
「悔しいから」
悪びれもせず即答した詩人。ものすごく機嫌の悪そうな顔をする海賊。
「…」
無言で猿轡をしなおし、座っているマストの軸に手をかける。
「そらよっ」
降りる際の反動を利用して思いっきり詩人を蹴り飛ばしていった。
「もがーっ！むぐーっ！」
ぐるぐると回り続けるのをよそに、結局体は冷えなかったなと思うのだった。
まだ雨は降っていたが、懐かしい母港が見えたということで誰も気にしていなかった。シリアの祈りが届いたのか、一晩順風が吹いたので思ったより早く帰りつくことができたのだった。
「長かったなぁ」
感無量といったケルの横で、シリアが申し訳なさそうな顔をする。
「ごめんなさい」
「なんで姉御が謝るんで？」
「私が出て行かなけりゃ…」
そのまま黙ってしまったシリア。困ったように笑いながら大柄な男はシリアの頭を撫でる。小さな子どもにするように。
「姉御のいない帰還なんて、考えられないですよ」
「…本当？」
他人が見れば恐ろしいケルの顔。それが今ではほころんでいる。
お前は船に愛されているんだ
自分を一番必要としてくれる人のところにいるのが一番よ
昨夜のトミーの言葉と、いつか聞いたリテの言葉。
「うん、ありがとう」
「それより姉御。昨日ずっと甲板に居たんですってね？見張りどもが口をそろえて言ってんですが」
「うん。あの青白い炎が出た時は、誰かが祈るって、初めて乗った船でいわれたから」
「俺らはそんなことしません」
「うん…でも…まあね」
「頼みますからそんな真似しないでくださいキャプテンが知ったら、夜に出してもらえなくなりますよ」
「あ、もう知ってる…の」
少しだけ顔を赤くする。
いや、あれはただの事故だ。そうに違いない。べつにたいした意味などないはず。
「へぇ、あの人が…。あれだけ姉御に風邪をひかすなだとか、危ない目にあわせるなだとか怒り狂ってた人が」
「私の性格をようやく理解したのよ」
「筋金入りの、頑固ものってね」
噂の主だ。
「ケル。なにか妙な雰囲気じゃないか？灯台の灯が入っていない」
「ええ、それは気がついていました。けど、港自体はいつもみたいですが。この長雨で、薪がしけっちまったんじゃないですかね」
「それならいいんだが」
まだ不審そうに目的地を見つめている。
「何をそんなに」
「そんなことわからない。ちょっとした気苦労だ」
頭を振るとシリアと眼が合った。
「頑固者の姐さんは、結局朝まで祈ってたんだな」
十分に湿気を含んでいるマントを見ながら、しょうがないなと笑う。
「そいつはそれなりに防水なんだが、ひどく濡れてる」
「あ…これ……」
今の今まで気がついていなかったようだ。
「俺らのために一晩祈ってくれてありがとうな。さ、ケル。下船が近いぞ。忙しくなるから、ほかの奴らに伝令だ」
「了解！」
ポンとシリアの肩を叩いて行ってしまった。こっちこそマントありがとう、といえないまま彼女も手伝いにいった。
「トミー様！」
メルカが板の橋を駆け上ってきた。
「メルカ？こんな雨の中…」
「メルカ待ってたよ。お帰りなさい、トミー様」
「ああ。ちゃんと約束どおりだろ？ただいま」
「うん」
太陽のように笑う少女がまぶしい。彼女は周りを見渡し、カルサートが水を滴らせているのに気がついた。
「あれ？カルス様はどうしてみんなよりびしょびしょなの？」
入港の直前、見苦しいからとようやく下ろされた彼は、言うまでもなく全身水浸しだ。が、メルカに本当を言うわけにもいかず、苦く笑った。
「ちょっとね」
「気をつけてね」
にこりと笑っていつものようにトミーの肩に担ぎ上げられた。
「…メルカのほうがお前より優しいや」
「当然。何が悲しくて、自分を襲おうとした奴に優しくなんかしなきゃなんないのよ」
「そのことだけどよ。…お前、本当は男知らないだろ」
「…は？」
顔色一つ変えずに堂々とそんなことを言ってのける男の神経を疑う。
「だって、夕べトミーにキスされたあと、すっげー戸惑った顔してたじゃないか」
「見たの？」
「俺の目は結構いいんだ」
「あきれた」
「で、どうなんだ？」
「んなこと言う必要ないじゃない。とくに、女の子を具にもつかない錬金術の材料と考えているようなあんたには！」
そのまま自分の荷を持って行ってしまった。後に残されたカルサートは、肩をすくめてついていく。その背に当たって止まるまで。
「なんだよ、急にとまんな」
「…」
無言でシリアは先を指す。雨に煙って見難いが、トミーとセルバスと、誰か知らない男がもめているようだ。それが気になって全員が手を止めている。
「いったい…、あ、終わった」
手下がまわりに集まる。何事かと心配そうに船長と副船長を見た。
「…テバが殺られたそうだ」
緊張が走る。何も分からないシリアでさえ、その声の重さにびくりとした。
「テバってのは、俺らヴァリス一族と同じように、コルウィスキーと敵対しているんだ。その総元締めだな。ちょうどこの街の裏の山脈を越えたところになわばりを持ってて、俺たちの街の防波堤の役割もしてた。そいつが殺られたってことは…」
カルサートが聞いてもいないのに説明を始めた。
「次は俺たちか！」
間を持たせて次を言おうとした瞬間に、手下が声を上げたので少し気に入らないようだ。
それはともかく、ざわめきが漣のようにはしる。
「落ち着け！テバはコルウィスキーの奴らに真っ向から歯向かってたからそんなことになったんだ。けど、俺たちはまだ、あいつらと直接相対する理由はない！」
トミーの恫喝にいったんはざわめきが収まる。けれど、そこに料理長が声を上げた。
「なんだシェフ！」
「姉御の持ってた茶器の…印！あれは…コルウィスキーのだ」
「なんだと？」
「本当か？」
「ああ。奴らの街にはあふれてる…どうしてさっさと気がつかなかったんだろう…」
「でも、私…これ、この船の船倉で見つけたのに…」
突然視線が自分に集まり、しどろもどろになる。その視線はいつもの親愛ではなく驚き。そして、ちらりと不信も。
「…」
黙ってしまったシリアの肩をそっとカルサートが引き寄せる。
「お前らは、この女が疑わしいのか？」
静かだが、よく聞こえる声。
「この女はお前らのために、一晩寝ずにいい風が吹くようにと祈ってた。そんな奴を、お前らは信じないのか？」
「カルスの言うとおりだ！シリアが疑わしいというのなら、まずは俺を納得させてみろ！」
トミーもまた彼女のそばに立つ。セルバスとケルも無言で従った。そして、彼女が一晩甲板にいたことを知る人間も。結局その騒ぎはそれでおさまった。けれど、彼女の心には疑われた、という意識がわずかに残ることになった。