海風に吹かれて １８
シリアはおとなしく男のされるままになっている。最初は警戒していた手下も次第に警戒心を解いていく。
「役得だな」
完全に気を抜いて男が顔を近づけた。その瞬間、男の両耳を同時に、自由になっていた両手でこれでもかと力を込めて打ち付けた。男は女の体の上に崩れる。気絶して、ぴくりとも動かない。
「もうあんたたちに体メチャクチャにされる理由なんか無い…」
一対多数の時はどうしようもないが、一対一ならば身を守る護身術程度は身につけている。男はおそらく鼓膜が破れただろう。
「…早く行かなきゃ…」
男の腰から短剣を抜く。心もとない護衛だが、ないよりはいい。
「あまり走らないように…でも急いで」
再び部屋を這い出していく。
廊下には人気がなかった。どこかで騒いでいるが近くではない。ほっとして少しずつ歩く。
「まさか、またこんな目にあうなんてね」
あの時は妹の防波堤に。今度は、恋敵の防波堤に。今回は完全に守りきることはできなかったが、それでも多少は矛先をこちらに向けられただろう。
「でも…私なら大丈夫…うん」
言い聞かせながら一歩一歩歩いた。
しばらくいくと騒ぎが大きくなってきた。できれば見つからずにいきたい。気をつけながら近づき、柱の影から様子をうかがった。
「おらーっ！さっさと女を出せっ！」
騒ぎの中心でトミーが暴れていた。巨大な剣を振り回し、どこからともなく現れる手下をなぎ倒している。まだ鞘越しなのでそんなに凄惨さがないけれども。
「あっ…」
彼が剣を振るっているその向こうで様子を見ているものがいた。トミーはそれには気がついていない。考えるより先に体が動いた。
突然裸同然で短剣をかざして飛び出してきたシリアに驚くトミー。
短剣を構え、男を守るように腰を落とすシリア。
その二人に向かって細いナイフを何十本も投げつけてくる男。
そして。
致命傷になりそうなものは落とした。けれど腕や足をかすり、血が絶え間なく流れ出している。それでもたっているだけ、すさまじい精神力といえる。
「なんて…」
「ふん…っ…あんた助けたわけじゃ…ない。メルカちゃんが悲しむから…」
視界が揺らぐ。頭が痛い。キケン。
「……っ！」
「シリア！」
倒れるかと思ったけれどまだ立っていた。
「おい、大丈夫か！？」
「人のことよりもっと周り…みて…」
言いながら短剣で飛んでくる刃物をたたき落とす。トミーは飛びかかってくるものを蹴り倒したり殴っている。しかし、それにも限界があり、やがてシリアの体は切り傷だらけになった。
「おやめっ！」
ざわりと周りの空気が変わる。プルファンだ。
「女をそんなに傷つけてどうするんだ。商品価値がなくなるだろ！」
手下を怒鳴りつけながらトミーを値踏みするように見る。
「ふうん…。なかなか可愛い坊やね。……どう？」
吐き気を催すほど甘い声。
「悪いが俺は年上の趣味は無いんでな」
嫌悪を隠そうともせず言い返す。
「そっちの淫売がいいわけ。…あんた、この女が何をしたか知ってるの？」
座り込んだシリアにあざけりの視線を送りながら笑う。
「恥ずかしげも無くそんな格好でうろついて……。よっぽど飢えてるのね」
「まあ、少々突拍子のないところのある女性だと、私も思うな」
「殺し屋まで…」
「……マイスターさん…」
プルファンの後ろで無表情に腕組みをする男がいた。
「あらマイスターちゃん。そんなところにいたの」
中年女の甘い声にも毛ほどの感情の動きを見せない。
「…あの方からの、通達だ。元々私はこのためにここに来た。とんだ回り道をしたものだ」
「なぁに？」
「プルファン。あなたはあの方の愛人だ。だがそれは、その財産を勝手に手をつけて良い訳ではない、と」
途端に女の顔が青くなる。
「今日のうちに全てをかえせ。でなければ死を。以上だ。……全く…私は伝言板ではない…」
「今日！？」
青さを通り越して白くなった女が叫ぶ。
「もう日なんかとっくに暮れて！」
「あなたは私の話を聞こうとすらしなかった」
彼女は新しい部下を物色することばかりに気を取られ、マイスターがやってきた意味を考えていなかった。普段から手足のように使っていたせいもあってか、そこにいるのが当たり前という感覚でいたのだ。それが命取りだった。
「ねぇ…お願いだから」
「いう相手が違うだろう。もっともあの方の忍耐も限界のようだったが」
それまで高慢に彼に命令をしていた女が、今は彼の慈悲を乞うている。所詮後ろ盾がなければ生きていけない女だ。それは分かっていたが、軽い失望を覚えた。
「…もう時間…か」
「そんなっ」
勝手に話が進んでいくので少々取り残された気分のトミー。シリアは黙って座り、その様子をじっと見つめている。
チェック・メイト
「詰 み」
その時に起こったことを正しく描写できる人間はいない。次の瞬間プルファンは絶命しており、数人の手下も倒されていた。
「…すげぇ」
純粋に感嘆の声を挙げた海賊。噂には聞いていたが実際見て、その技、早さは半端ではない。
「仲間…かつての仲間さえ、感情無く殺っちまうのか…？」
「…」
三回呼吸する間に、彼らを取り巻く手下は全員倒されていた。
「殺しちまったのか」
「将来に不安の種を残すな。……それが命令だ。そして、私の生き方だ」
顔色を変えずにトミーにスパイクを突きつける。血に濡れたその切っ先は鋭い。
「俺も不安の種だと」
こちらも表情を変えずに剣を構え直す。この状況なら、マイスターの錐がトミーの額を貫くのと、トミーの剣がマイスターの胴を払うのはほぼ同時だろう。どちらも尋常ではない技の持ち主だ。
「そうかもしれないし、そうでないかもしれない」
緊張した空気が場を支配した。そこへ、ためらいがちに声が掛けられる。
「あの…マイスターさん」
シリアが気丈に笑っている。
「ありがとう、私の依頼……受けてくれて」
とぎれがちになる言葉を紡ぎながら立ち上がる。
「依頼料は…どのぐらいですか？」
その場に全くそぐわない程の笑顔と明るい声。どうしてここでそんなことができるのか、男達は不思議に思った。
「依頼料か」
気がそがれたというように武器をしまい、いつのまにかはずされていた眼鏡をかけ直す。トミーも内心ほっとして剣をひいた。
「またもらいにいく。今は…まだいい」
そう言って出て行った。
「俺らも帰るか」
「…」
「どうした？」
「…」
張り詰めていた糸が切れたようにその場に倒れた。
「まったく…なんて女だ…」
手当てを受けて静かに眠るシリアを見ながら呟く。
「よくこんな状態で動き回ることができたわね。トミーちゃんの言い方だと、すごい立ち回りしたんでしょ？」
「御方さん、その呼び方はちょっと…」
「だって小さい頃から私はあなたを知っているわ。だからそう呼んでもいいじゃない？」
セルバスの妻ミータが血の付いた包帯を捨てながら笑う。
「御方さんだけですよ、俺をそんなに呼ぶのは」
「いいじゃない。そういう人が一人ぐらいいたって。大丈夫、他のみんながいるところでは呼ばないから」
「別にいいですけどね」
どうも母親がわりに育てられたせいか頭が上がらない。苦笑しているところにカルサートが顔を出した。
「様子は？」
「今はちゃんと眠ってるよ。致命傷になりそうな傷はないし、まあ二週間ぐらいおとなしくしてたら元気になるね」
「そうですか」
「それにしても、この女の子。すごいわね」
感心したとミータは続ける。
「だって、あんたたちをそこまで心配させるんですもの」
「俺たちだけじゃないですよ。外にみんな集まってます」
カルサートが玄関の方を見ながら言った。
「あんまりばたばたするのもよくないからって、副長が追い出してますけど」
「あらまあ…」
気のいい中年の女は肩を大仰にすくめた。
「じゃあ、私はこれを片付けてくるわね。なんか変わったことがあったら呼んでちょうだい」
包帯や布の山を抱えて出て行った。あとに残された男二人。
「…なあカルス」
「お前だったら…。シリアの目が醒めたら、なんて声をかける？」
「うーん…」
「…連れて行かれて、なにがあったか…考える間でもなくわかるんだ…。しかも、エリザを逃がすために、自分の体を張ったらしい…文字通り」
「普通、できないよな、んなこと」
「俺もそう思う」
なんという女だ。なんという生き様だ。そう思わずにはいられない。
「…いつものように」
「ん？」
「いつものように声をかけてやれば、いいんじゃないか？」
「そうかな…」
「変に気をまわすより、その方がいいと俺は思う」
詩人がそっと笑った。長い髪が揺れる。
「……こいつ守ってやれないかもしれない」
「なんだよいきなり」
「……」
「…まあ、俺は、この女はなにかを守る側の人間だと思ってた」
「ごめんカルス。ちょっと頭冷やしてくる」
そう言って部屋を出て行った。
「あいつも結構悩むんだな」
カルサートは寝台の近くにあった椅子を引き寄せる。
シリアは相変わらず眠っており、時折どこか痛いのか、苦しそうな表情をする以外変わったことはない。
「なんでそんなに生きる？」
今の世の中、人のために自分を犠牲にするなんてナンセンスだ。
「ばかげてるよ…お前」
しかも、エリザは自分の恋敵だというではないか。
あきらめながら頭を振るカルサートだが、彼女のような心の持ち主がまだこの世に存在することに驚き、そしてうれしくなった。昔は彼も、他人のために何かできると信じていた。けれど成長するにつれ、世の中はそんなに単純ではないことを知ってしまった。
乱れたシーツを直してやる。塗られた薬の匂いが鼻梁をくすぐった。
「だけど…トミーが惚れるのは、わかるな」
物好きだとは思うけれど。
「…守られているようなふりをして、実は俺たち全員をみて、守ってるのがこいつなのかもな」
無意識のうちに頬に手を添える。熱と柔らかさを感じた。
「んん…」
なにか言いかかったので慌てて離す。
「だめだ、俺も頭冷やしに行こう」
慌てて部屋の外に飛び出していった。