ある出会い
母は彼女に事あるごとにこう告げた。
「あんたは弱いの。だから強くなりなさい」
そのたびに彼女はこう答えた。
「わかってる。でも、私は武器を使えない」
気がついたら汗ばんでいた。まだ母親が生きていた頃の思い出。母親はつわものぞろいのエラシ族の中でも、五本の指に入る戦士だった。彼女の名はデルトオーヴ・ガリュト、通称デル。現在、エラシ族の中でもっとも弱い戦士である。
デルはまだ薄闇に包まれたままの朝の中、手早く身支度を整えた。人より早く猟に出ないと、彼女の猟を人に見られてしまうことになる。デルはそれを嫌った。使いこんである短剣を腰帯の脇に挟み自分の小屋から飛び出す。短剣は彼女が唯一まともに扱える武器だった。
「本当はレイピアを扱いたかったけれど…」
母親はレイピアの名手だったから。こんなところでも彼女は、自分は母と違うということを実感した。
エラシ族とはメニウと呼ばれる世界の、赤道にそった熱帯雨林全域に分布している女性だけの民族の事。彼女達は子孫を残す時のみ男性と繋がりを持つが、普段はその生活圏に男性は存在しない。生まれた子供が女であれば戦士として教育し、男であれば里から下ろす。多くは海の民、ナーアウ族に預けられた。エラシ族はいわゆるアマゾネスである。
日はもう高くなっているが、デルはいっこうに獲物を捕らえられないままジャングルをさまよっていた。彼女は武器を効果的に扱えないのであまり猟は上手くないのだ。他の仲間ならこの時間になればもう大型動物を二頭は捕まえているだろう。
「今日は遠出してみよっか」
半ば猟はあきらめ、彼女は森の中を南へ走りぬける。やがてジャングルの切れ目にたどり着いた。
エラシ族はジャングルを出る事はほとんどない。ナーアウ族と交渉する時は彼らが河をさかのぼってくるのを待つのだ。だからサバンナを見た事はなかった。サバンナはあまり続いてはおらず、すぐに山に続いていた。と、誰かの声が聞こえた。甲高いが女のものではない。
「子供…？」
デルは山のほうに向かって走る。狩猟生活の民なので体力には自信がある。普通なら絶対に駆け上がれないような坂を一気に走りぬけた。
視界が開けると、沼があった。その真中で子供がおぼれているではないか。ちょうどその上には木の枝が張り出しており、もう一人子供が必死に手を伸ばしている。しかしそちらの子供も沼に落っこちそうだ。
「私に任せなさい！」
デルはそう叫ぶとよどんだ水にためらいもせず飛びこんだ。子供はもうぐったりしており、水から引き上げるとデルは人工呼吸を開始した。しばらく続けていると子供は息を吹き返した。ゆっくりと開くその瞳はピーコック・ブルー。
「よかったぁぁ」
にっこりと笑うデルに、子供は照れたようにお礼を言った。
「ありが…とう、お姉ちゃん」
デルは彼らに角が生えている事に気がついた。右と左と片方ずつ、同じ色の角だ。
「あなた達は…もしかして『右の角』族と『左の角』族？」
「うん」
「本当に助けてくれてありがとう。そうしないと僕達、大人になれないところだった」
『右の角』族と『左の角』族は時がくると同じ色の角を持つもの同士がひとつになり、『唯一のもの』と呼ばれる大人になるのだ。同じ色の角を持つ子供がいない限り大人になれない事になる。
「僕は『右の角』族、ピーコックブルーライト」
「僕は『左の角』族、ピーコックブルーレフト。いつも一緒だからピーコックって呼ばれるんだ。お姉ちゃんは……エラシの人だね？」
エラシ族は顔に牙の刺青を入れる。
「でも、髪の長いエラシの人なんて初めて見た」
「これはね…。髪が長いのは未熟な証拠なのよ。早く短くしたいんだけど、長が許してくれないの。私はエラシの落ちこぼれだから。デルトオーヴ・ガリュト。これが私の名前だけど、デルと呼んでくれればいい」
「いけないこと聞いちゃった…？」
ライトが落ち込んだとうにつぶやく。
「気にしなくていいのよ。事実だから。みんなは十歳ぐらいになったら髪は短くなるんだけど、私は二十になっても長いまま。この際これでもいいかなーなんて思ってる」
暗い雰囲気になったので、レフトはぬれた服を気持ち悪そうにさわりながら話題を変えようとした。
「お姉ちゃん、二十歳だったんだ。僕達は二十三回、雪を見たよ」
「え…私より年上なの？お姉ちゃんなんて言われるなんて…」
「別にいいんだ。僕達はまだ子供なんだよ。後二回雪を見たら大人になれる」
目の前の子供達はまだ十歳ぐらいにしか見えない。デルは不思議な気持ちになった。
「ねえ、あなた達は男の子？私達エラシは子供を作るとき以外男と話をしたらいけないの。だから私と会ったことは黙っててほしいんだけど」
「僕達は…大人にならないと性別がわかんないんだ。その時に足りない方になる。男が足りなかったら僕達は男になるし、その逆もある」
「だから別に大丈夫だと思うよ」
「…そう、ね」
彼女は立ち上がるとレフトに、背に乗るよう言った。
「おぼれたばっかりの子供をそのまま返す事なんか出来ないわ。私は大丈夫よ。体力だけは自身あるんだから」
レフトは躊躇したが、ライトが促したので彼女の背に乗った。長い髪は濡れていたがいい匂いがする。思わず顔が赤らむ。
「まあ、あなた達の集落の近くにまでしか行けないけど、『右の角』族と『左の角』族ってもっと上のほうに住んでたはずよね」
「うん、そうなんだ。なんだか遠出してみたい気がしてライトを誘ってきてみたんだ」
「ま、たまには冒険してみたくなるのもわかるけど、これで懲りたでしょ。今度からは気をつけ…？」
ライトの様子がなんとなくおかしい気がした。声をかけてもなんでもないというばかりだ。変に思ったが集落が近づいたのでデルは彼らと別れ、ジャングルへ帰っていった。
「ライト。なんか変だぞ？」
「大丈夫…だって。それよりレフト。おまえ、デルが好きになっただろう？」
「な…なんで」
「甘く見るなよ。だてに同じ角を持ってるわけじゃないんだから」
苦しげながらもにっこりと笑うライト。しかし、彼の笑い顔を見たのはそれが最後だった。
「ら、ライトぉぉぉ！！」
彼の声は帰りかかっていたデルの元にまで届く。慌てて駆け戻った彼女が見たのはもはやぴくりとも動かないライトの姿だった。レフトはただライトを抱えるのみ。
「なあレフト。僕もデルは好きだよ。だから待たなくていいよ」
「なん…」
デルがライトをレフトからひったくる。彼らの一族に奇異の目で見られているにもかかわらず、デルはライトを揺さぶりつづけた。彼女は腕に蛇の噛み跡があるのを見た。
「ダヴィ蛇の噛み跡！早く、血清を！」
ダヴィ蛇は猛毒を持つ。血清が作られているのは確かだが、噛まれて三十分以内に打たないと意味がないのだ。回ってしまった後ではもう遅い。おそらく木の上でレフトを助けようとしていた時に噛まれたのだろう。気配なく忍び寄り、痛みなく獲物に噛みつき、そして倒れたところを貪る。それがダヴィ蛇の習性だった。だからもう、ライトがそのサファイアブルーの瞳を開く事はなかった。
「ライトぉぉぉぉぉ！！」
レフトの慟哭は山中に響いた。デルは揺さぶるのをやめライトの腕を静かに組んでやる。一族の者達は静かにたたずむままだった。一人の『唯一のもの』が進み出た。恐らくライトの母親なのだろう。彼女は何も言わずにライトの亡骸を抱えると、静かに自分の小屋へと戻っていく。
「ほんの少ししかしゃべらなかったけど…。弟みたいだった」
心の中で永遠の別れを告げると、デルは初めて自分の周りの状態に気がついた。そこにあったのは奇異なる者への目。
「あんた…エラシの女だろ？なんでこんなところにいるんだ！？」
「そうだよ。なんで森の中で野蛮に生きてる女がこんなところにいるんだい？」
「あ…あの…」
「あんたが災いを連れてきたんだな。ピーコックライトのもとに！」
デルはいたたまれなくなって小さく敬礼をすると、レフトに泣きそうな笑顔を向けてその場を立ち去った。
「おまえの長にこのことは言っておくからな！」
後ろで誰かのわめき声が聞こえた。