人の夢は儚い
「アディがやられた！」
その知らせは電撃のように集落を駆け抜ける。緊張がよみがえった。デルは仕事がちょうど一段落したのでバレムに字の書き方を教わっていたが、その悪い知らせの中心の人物、すなわちアディのいるところへ走った。バレムもその後を追う。
「一体何が…！」
「わからん。ただいきなり倒れたかと思うとそれっきり」
いっしょに門番をしているロッヒが彼を横たわらせた。直後にドムが侍医フェイラをつれてかけこんでくる。アディの顔には血の気がないが、それ以外は朝会った時とまったく変わらなかった。
「…アディ」
「こいつは一体…なんだって言うの」
侍医はアディの体をくまなく調べるが原因がわからない。バレムは彼女の横に立つとアディの様子を見た。
「分かる…？」
「……いや。………待てよ、これを見て」
バレムが左の二の腕を指している。よくみると小さな小さな穴……。
「毒！？」
「多分。どんな毒か分からないと、助からない…」
ドムは集まっていた戦士達に指示を出す。おそらくまだその辺りに潜んでいるだろう、刺客を捕らえるためだ。音もなく彼らは小屋から散っていった。
「毒を消す事は出来ない。でもこの状態を維持する事ぐらいなら、毒の進行をしばらく止める事なら…」
そう言うとバレムの体から不思議な気が流れ出てくる。それは手のひらからアディの体へと入りこんでいった。フェイラはそれをサポートするように手で印を組んだ。
「…デル」
ドムが彼女を促す。彼らの精神集中を乱してはならない。
「ふうっ」
外の風がいつもより恐ろしく冷たい。それなのにデルの体は燃えるような気がした。
「畜生！シアニアの奴らめ、毒なんか使いやがって…！」
「アディ、大丈夫かな」
「助かる。ああ、助かるんだ！そう信じるんだ…」
「でも…」
「それ以上言うな,デル！」
兄は言葉を荒げた。
「所詮俺達にはフェイラやバレムみたいな能力はないんだ！おまえの言いたいことは分かるさ。ああ、痛いほどよく分かる！だけど俺達は今、足手まといにしかならない！それなら無駄にそばにいるより自分ができる事を探せっ！」
肩を震わせながら自分も探索に出ていった。デルは何もできない自分にいらだたしさを感じた。
「どうしてこんな時、私は何もできない…？」
仕方の無い事なのだろう。
「人にはそれぞれ領分がある。あれもこれもと欲張ってしまえば、全てが無に帰してしまう」
これは誰の言葉だっただろう。遠い過去、彼女がまだ小さな子どもだった頃聞いた言葉だ。そんな事を思いながら、せめて兄達の手伝いをしようと門に向かって歩いていると、長老がいた。
「ドムはかなりあれていたな」
無言で長老に頷くデル。おそらくデルに聞かせているつもりはないのだろうが、長老とは、そうしなければならない空気を出す人物だった。
「それも無理からぬ事だろうが」
「え？」
疑問の声を発してはじめて長老はデルの存在に気がついたようだった。
「そうだな。おまえはここに来て日が浅いから、ドムとアディの関係なんぞ知らんのだな。やつら、乳兄弟だ。ドムのほうが半月ばかり遅く生まれた。アディはドムの乳母の子だった。ドムはよくアディの家にいたよ。母親はエラシの里にいるし、父親は戦に出て滅多に奴のそばにいない。自然と仲もよくなったさ。それ以来ずっとともに人生を歩んで来た。アディは奴にとって実際の血を分けたおまえより近い存在だ」
それだけ言うと長老はデルの目を見つめた。デルは軽く会釈をすると再び門に向かって歩き出した。
「一番悲しくてつらいのは兄さん。だけど、兄さんはどんな時でも冷静にみんなを指示していかなくてはならない」
そうだ、私は兄の負担を減らさなくてはならない。きっとできる筈。私にも、兄の血は流れているのだから。エラシとナーアウ、双方の最強の血が。
数刻の間が無駄に過ぎた。ドムは的確に部下に指示を出しつづけ、デルはそのサポートに徹し、自分も手がかり探しに走りまわった。そして見つけたものは、刺客と思われる人物の死骸だけだった。
「ちっくしょう！残った毒を全部飲んで死にやがったな！」
思いきり動かないその塊を蹴り飛ばしながらわめくドム。その瞳にたまった涙は幻だったか。彼はきびすを返すと集落へ向かって駆け出した。
「兄さん…」
デルはその後ろ姿を見ながら死体を見た。おそらく、アディが倒れた直後に自分も毒を飲んだのだろう。あるいは飲まされたのか。少しでも毒が残っていないかとその死体を調べたが何も出てこなかった。
「無駄…か」
じっと死体を見つめるデル。
「ごめんなさい…今はあなたをこのままにしていくしか…。必ず戻って弔います」
近くにいたナーアウの戦士に聞かれないようにつぶやいた。聞かれたら、敵に何を言うのかと問い詰められるのだ。そして彼女も集落の方に走り、そのほかのナーアウ族達も後を追った。無人のはずだった。しばらく静寂が続いたが、突如立ち枯れの木立の間から気配が現れ、死骸を取り囲む。すると死んでいたはずの男は立ちあがり、その姿を変えていく。
「死んでいるのも気分の良いものじゃない」
「まあそう言うなって。ちゃんと迎えに来たじゃないか」
「当たり前だ」
いくつかの声が聞こえ、今度こそ静寂。降り出した雪だけがそれを見ていた。
戻っていく途中ロッヒに出会った。
「デル…アディが、おまえを呼んでる」
ただならぬ様子に悪寒を覚えたが、呼んでいるといわれ行かないわけにはいかない。デルは無言で頷いてスピードを上げた。雪は柔らかく走りにくかったがデルはものともせず走った。
「バレム！」
息を弾ませながら小屋の前にいた青年を呼ぶ。彼は黙って小屋の中を指した。
促されるままにはいったそこにはアディがじっと横になっている。暖炉の火が弱々しく燃えていた。
「よお」
アディのほうが先にデルに声をかけた。彼女はなんといっていいか分からず彼のそばにあった椅子に座った。
「そんな顔すんなよ。気がめいっちまう」
「アディ…」
やっとの事でいえたのはそれだけだった。後は何も言えずただ涙が流れて来る。しばらくそんな様子を見ていたアディだが、やがて上半身を起こすとデルの頬に手をやった。
「泣かないでくれよ。俺はおまえの笑顔が見たいからさ」
「でも…でも…」
困ったように笑うと彼はデルにささやいた。
「デルトオーヴ」
フルネームで呼ばれることなど滅多にない。デルは涙を拭きながら顔を上げた。
「俺さ、おまえに初めてあった時から惚れた。だから、おまえの笑い顔を見て逝きたい。愛した女の笑顔を心にとどめておきたい」
笑えなかった。笑えるはずなどなかった。それでもデルは必死で笑おうとした。ここに来てからの楽しい事を話し、精一杯笑った。今の彼女にはそうすることしかできなかったのだから。あふれ出ようとする涙を押さえながら。
デルの様子を見ながら優しく微笑んでいたアディはそっとデルの手を取った。
「……ありがとう、デルトオーヴ。俺の無茶な願いを聞いてくれて」
握り締める手には、デルを引いて海を渡った時の力強さはない。アディは体を伸ばし、空いた手でデルの髪をまとめているバンダナを解いた。琥珀色の滝が流れ落ちる。
「うん。それもいい。思ってた通りだ。いつも髪、たばねてたけど、そういうのもいいよ、デル。俺はずっとそう思ってたから」
にこにこしながら彼は告げた。
「…でも、そんな事、言われた事なかったよ」
上ずりそうになる声を耐えて紡いだ。
「ずっと上げっぱなしだったんだろ？そりゃそうだろうな。…じゃあ俺がこの姿を見る一番乗りってことか。なんか嬉しいな、そういうの。ドムの親父に会ったら伝えとくよ。『あんたの娘は誰にも負けない、いい女だ』って」
もはや冗談は冗談に聞こえない。デルはうつむいてアディの血の気のなくなった手を見つめる。
「デル、顔を上げて、くれないか」
苦しいのか先ほどから言葉が途切れはじめている。はっとしてデルは顔を上げる。目の前にアディの顔があった。彼はデルに顔を近づける。彼女は静かに目を閉じた。
とびらが開く音を聞いて一斉にそこにいた人間がデルに注目した。デルは黙ったまま首を横に振る。下ろされたままの髪が悲しそうに揺れた。ナーアウの人間はその場にくずおれ、ドムはデルの代わりに小屋に入った。少し離れたところにバレムが立っている。
「僕は…何もできなかった」
それには答えずデルは彼の顔を見つめた。不意にその顔がゆがみ、今まで我慢していた涙があふれ出て来た。バレムはそれ以上何も言わず、聞きもせず、ただデルが泣くのを見ていた。
人の死など幾度も見てきたはずなのに。それでも、母親が死んだ時でさえこんなに空虚な心にならなかった。
（人にはそれぞれ領分がある。あれもこれもと欲張ってしまえば、全てが無に帰してしまう）
そう、これは母が残した言葉だった。龍に致命傷を負わされ、虫の息でデルに告げた言葉がそれだった。
「でもね。欲張ってもそうと気がつかないまま逝けるなら、それは幸せな事なんだ。領分がどうのこうのというのは、所詮残された者の気晴らしなんだろうね…」
母は後悔せずに逝った。きっとアディもそうなのだろう。しかし、残された者は長時間、その痛みにさいなまれるのだ。何もできなかった。力が及ばなかったと。そしていつの日か、自分たちの領分を決めてしまって、そこから動かなくなるのだ。
「みんな…何もできなかったよ、バレム」
涙混じりにそうつぶやいた。