折れた翼
動けない青年を、琥珀色の風がさらう。落ちてくる本の上を渡りながら安全な場所に移動していたデルだった。
「しっかりしてよ！」
「あ…デル！」
彼はデルに抱えられ、本の滝を上へ上へと登っていた。そのことを理解するや否や、彼は渾身の気力を込めてその場から離脱する。次の瞬間には書庫から出てメインカウンターの前にいたが、デルはそのことに気がつかずそのままカウンターの上に上がってしまった。本を借りに来ていた人がびっくりしたような表情でこちらを見ている。
「デル…降りよう」
「あ…あれ？」
顔を赤くしてカウンターからそそくさと降りたデル。やっと離してもらえたバレムは、先ほど感じた、あの場にそぐわない感情にどきどきしていた。まだピーコックブルーレフトと呼ばれていたころ、同じようにデルに抱えられて助け出してもらったことを思い出した。あのころから変わらずデルの体からは良い匂いがしたのだ。変わっていなかったことに嬉しさを感じた。
「おいバレム。なに赤くなってるんだ」
ギンカがニヤニヤしながら彼を見た。
「うるさい」
照れ隠しのためか、荒っぽい言葉で友人をたしなめた。
「ハイハイ、そういうことにしておこうか。で、このお嬢ちゃんは一体どうしてあんなところで本につぶされてたんだ？」
「そうよ、サスク、大丈夫？」
一同の目がサスクに注がれた。そこへアリトンが声をかける。
「まあまあ皆さん、ここにいては本の貸し出しに支障が出ます。こちらへ」
案内された部屋にサスクを寝かせ、デルはほーっと息を吐いた。
「なんだか、ここんとこずっと落ち着かないね…」
バレムが愚痴めいた感想を漏らす。
「のんきな事言ってないでお前も手伝え、バレム」
サスクの治療を続けていたギンカはバレムの腕を掴むと、自分の隣に座らせた。デルも反対側に行って横たわる少女の顔を覗きこんだ。無茶な子ではあるが、彼女のことは好きだった。
「…ん…」
「やった！」
「サスク、サスク！」
緑の瞳に生気が戻る。デルの姿を確認すると、にこりと笑った。ゆっくりと起き上がったサスクにそっと質問する。
「一体、何があったの？」
「わかんない…。いきなり本が崩れてきて…つぶされそうになったから飛んで逃げたんだけど、背中がものすごく痛くなって、落っこちて、結局本につぶされたの」
「背中が痛かったというのは、こういう理由だ。バレム、デル、彼女の背中を見てみなよ」
ギンカに言われるままに見てみると、七色の翼は途中で折れていたのだ。
「ひどい…」
「ね、デル。どうしたの…？」
一瞬この事実を伝えようかどうしようかを迷った。もしかしたらもう治らないかと思えば、なおさら言えない。サスクは空を飛ぶことが好きだったではないか。
「羽根がね、折れてる」
デルの葛藤などどこ吹く風。ギンカはさらっと言ってのけた。
「ギンカ！物には言いようってもんがあるだろ！？」
珍しくバレムがしかるような口調だ。そして言われたサスクは黙ったままである。
「サスク…？」
デルが覗く。その視線に気がつき、サスクはそっと笑った。
「そっか…。痛かったもんね。折れて当たり前、だよね」
「…泣いて、いいのよ？」
「うん…」
笑った目の端から、涙が溢れ出した。
「落ち着いた？」
「寝てる。何か変わったこと、あった？書庫の異変の理由とか」
「それがね」
バレムは首をかしげる。短くなった髪が揺れた。
「書庫は、アリトンじいさんが認めた人しか入れないことになってるんだ。あの時僕ら以外に何人か書庫にいた人がいるみたいだけど…」
「じゃあ訊けばいいじゃない」
「それがさ、いま行方不明で」
「え？」
バレムとギンカもアリトンに訊こうと思い、カウンターに向かった。しかし、そこにいたのは別の司書。アリトンがその場を離れるときに、代わりに貸出業務を行うのだという。
『じゃあじいさん、どこに行ったんだ？』
『さあ。私は代わりの業務を行うものなので、そこまでは』
『いつ戻る？』
『さあ。すぐ戻るか、１００年後か』
『…』
ギンカとバレムは顔を見合わせるしかなかった。
「アリトンさん、きっと何か気がついたんじゃない？だから業務代わってもらって、出かけたんだと思う」
「僕もそう思う。とにかく今ギンカが、書庫出入りの記録を見せてもらうように頼んでいるんだ。ちょっと様子を見に行こうと思うんだけど」
「私も行く」
「サスクは？」
「一人にしてあげた方がいいんじゃないかしら。どの道今は寝てるから」
「わかった」
二人が部屋の前を離れた頃、サスクは何かの声を聞いて起きた。
「…なあに？」
耳元でざわざわという音がする。何かが、彼女の中に入り込もうとしている。
「やだよー。言いたいなら、はっきり…」
（…だってつらいでしょ？）
同情の声にいやがる気持ちが少し萎える。
「…うん」
（いい方法、ある）
「どうするの？」
（この図書館の地下。書庫よりももっと下。基底部に、アカシックレコードがある。それを、書き替えればいい）
「…いいの？」
（だってつらいでしょ？また飛びたいでしょ？）
「…うん」
だんだん思考がはっきりしなくなって来た。入り込んできた思考なのか、自分の思考なのか。
（少しぐらい…）
「少しぐらい…いいよね。こんなの、あんまりだよね」
もっと飛びたい。やっと、他の人の目を気にせず飛んでもいいようになったのに。みんなが飛んでいくのに、自分だけ飛べないなんて、嫌だ。他の人より上手く飛べるところを、デルやバレムらに見せたいのだ。
顔を上げたサスクの表情が、一瞬だけうつろだった。
ギンカは足元に積まれていた本を蹴飛ばそうとし、バレムに止められた。
「いくら上手く行かなかったって、本に当たったらダメだよ。特にここの本には」
「…そうだったな」
渋面でけり出そうとした足を引っ込める。
「確かに本に当たるのは良くないけど、…ここの本には何かあるの？」
デルが疑問を投げかける。
「ここの本、古くなったら…つまり世界が変化を起こさなくなったら外に出されるって、ここに来た時言ったよね？」
「うん」
外にある本は変化を起こさない。それは、中にある本は、その世界が絶えず変化をしているということ。外から強い衝撃を加えたら、世界自体が崩壊しかねない。
「だから中にある本は図書館が守ってる。どんなに些細な破損でも、図書館はそれを許さない」
「許さないって…どうなるの？」
「俺が知る限りではどうなるのかなんて知らないな。ここに来るようになって、一度もそんなことにお目にかかってないから」
「ギンカ。もう少しで君がそうなるところだったんだよ」
バレムに指摘されてあっ、という顔になる。
「まったく…」
ダメだこりゃとばかりに頭を振る。
「つまりは変なことしたら図書館に怒られる、ってことなのね」
「端的に言えばそうなると思う。怒られる度合いが違うだけだよ」
サスクがいる部屋へ向かいながらバレムがため息をつく。
「それにしてもアリトンじいさんどこに行っちゃったんだろう」
「総司書がいなくなるってのは、結構おおごとじゃないか？」
「多分ね。一体何に気がついたんだろう」
道々であまり読書とは縁のないような人にあう。恐らく、彼らもバレムやデルやギンカと同じように、この図書館を守るためにアリトンに呼ばれたのだろう。
「…ものものしいね」
「サスクが襲われたのはもう館内中に伝わってるから…。館内に何かがいるってことだからね」
三人は黙った。そう考えると、会う人すべてがサスクを傷つけた何かに見えてくる。
「気にするな、って方が無理だよな」
「…」
戸を開けるとサスクがぼんやりと窓から外を見ていた。窓の外には星々に混じり無数の本が漂っている。
「気がついた？」
「デル…うん。心配かけて、ごめんね」
「いいのよ。私が油断してたから」
「誰のせいでもないよ。また、治るかもしれないから」
そういいながらシーツをマント代わりに羽織る。
「で、これからどうするの？」
「さあ。アリトンさんが今いなくてね…。一応館内巡回はしようと思ってるけど」
「私も行くよ。もう大丈夫。…一人でいるほうが、寂しいから」
デルは男達の方をそっとみた。彼らは軽く頷いて見せる。
「うん、じゃ、行こう」
立ちあがるサスクの頭をぽんぽんと軽く叩き、デルは笑いかけた。しかしサスクは反応しない。
「あれ？」
声に出さず疑問に思う。いつもの彼女なら、デルに笑い返しただろう。
「…ま、あんなことがあったから…」
そう思ったが、なんとなく不安が拭い去れない。
「サスク？」
声をかけてみる。
「ん？なあに、デル」
いつもの返事。
「何でもない」
「…？そう、じゃ、いこ」
いつもと変わらないから、胸に残る不安が消えなかった。