黄昏近く
朝になり、どうやって図書館まで戻ろうかと思案していると、ヘディウが声をかけた。
「船を呼んであげる」
「船？」
「ここは螺旋図書館からの目印。図書館から旅立つとき、ここを目指す。逆もまた同じ。旅人はここから図書館へと戻る」
「でも、僕は図書館の座標を知っているけど…」
「そう？でもまあいいじゃないか。何百年かぶりに、船を呼んであげるよ」
いいながらヘディウは砂地になにかのサークルを引きはじめた。円、直線、知らない文字。輝き、闇、色、色、色。様々なものを取り入れながらその陣は出来上がった。
「ここへおいで、ここへ戻って。
世界はあなたの前に開く、世界はあなたの後に在る。
ここは始まり、ここは終焉」
不思議な文句だ。耳で聞く音は知らない言葉。なのに、頭の中で意味が響く。
「図書館へ…サスクの元へ」
デルが身を硬くしているとバレムが肩を叩いた。そちらを向けば、少し悲しそうだけれども、なんとなく安心できる微笑。
「僕もいる。一人だけなんて、思わないで」
「…ありがとう」
そういえば彼は何で私についてきてくれているのだろう。いつだって自分に関係がないことのはずなのに。
聞けば答えてくれるだろう。彼はそういう人だ。けれどやめた。聞いてしまったらもう戻れない。そんな風な危険を伴っている。
「さあ、船が来た。久しぶりの呼び出しで、あっちも張り切ってるよ」
ヘディウが笑う。船と聞いて想像できるよりも小さい、頼りない船だった。けれど、内に秘めた力がデルにですらわかる。
「いっておいで。そして、また戻ってきてあたしにいろんな話、聞かせておくれ」
「ありがとう。必ず戻ってくるから。またお茶飲ませて」
「用意しておく」
にこりと笑い、守人はデルとバレムを船に押しやった。
去っていく船を見て笑い、すぐその表情を引き締める。
「一足遅かったね」
虚空に向かって声を投げかけた。瞬間、空間が揺らぎ、真っ黒な外套をなびかせた存在があった。
「そう遅くもない。すでに図書館の座標は変わってしまっているのだから」
「馬鹿だね。なんであたしが船を呼んだか考えな。船は伊達じゃない。いくら場所が変わろうが、必ずたどり着く。嵐に会い、どうしようもなくボロボロになっても港にたどり着くが如く」
「…」
黒い存在は黙っている。が、わずかな気配の揺らぎから、悔しがっていることを知った。
「図書館を自分のものにするなら、もっとその周りのことにも気をつけていたほうがいいね。あんた達の主に、そう伝えといて」
「…すでに覚悟はできている、ということか？」
「馬鹿だね。あんたみたいのにやられるほど衰えちゃいない。約束もしたし」
淡々と言いながら持っていた木の棒を構える。
「そんな棒切れで一体なにができるのだ、守人」
「あたしはデルとまたお茶を飲むって約束した。守人は約束を違えない」
棒を顔の目の前で横に構え、黒い存在が発した気を受け流す。ターバンの飾りがばたばたと揺れ、その気の流れのすごさを物語っているが、ヘディウ本人は至って平気な顔をしている。
流れた気が後ろの灯台の壁を粉砕した。それでも守人は笑って立っている。それどころか、木の棒を構えることもやめてしまった。
「…」
「ふん」
不適に笑ってみせる。
「なんと」
「伊達に２０００年存在してないよ」
図書館がある限り、彼女は消えない。それが守人としての役割だからだ。そして、この連中は図書館を消すような真似はしないだろう。なぜなら、図書館自身が目的なのだから。
「さっさと主のところに戻りな。それとも、今ごろ船が着いたかもね」
「ちっ！」
お決まりのように舌打ちをして虚空に解けた。それをふん、と鼻を鳴らして見送るヘディウ。
「やれやれ。…騒がしいことで」
肩をすくめて灯台に戻った。やがて必ずやってくる茶飲み友達のために、とっておきのお菓子とお茶を振舞うため。
いくつもの景色が揺らぎながら通り過ぎていく。めまぐるしい動きに少し酔ってしまった。
「大丈夫？」
傍らの青年が心配そうに聞いてきた。
「うん。ちょっと横になるね」
そう言って横たわり、まぶたを閉じた。
船は少しも揺れずに進んだ。周りの景色がわけがわからないのでその速さをはっきりと知ることはできないが、バレムによるとかなりの速度だということになる。
「動力はなんだろう」
青年は興味深そうにあたりを見て回ったが、小船のなかでそんな物を見つけられない。やがて彼もあきらめて座った。
「あれ…」
座っていたバレムだが、彼が知る図書館の位置とは違う気がする。
「どうしたの？」
横になったままデルが反応した。
「図書館の場所が変わってる…ような気がする」
「…大丈夫なの？」
「……」
黙りこんでしまった青年に不安の顔を隠せない。それでも船は動き、飛び続ける。
「！」
急に起き上がったデルにバレムは面食らった。
「ど、どうしたの？」
「声…」
立ち上がり、船の縁に身を寄せる。
「声が…聞こえた」
周りの景色が変わっている。どこまでも続く星空が揺らいでいた。
「？」
耳を澄ませてみても青年には聞こえない。けれどデルは縁からある一点を見つめている。吊られてそちらに視線を動かし、それを見つけた。
「螺旋図書館だ！」
すっかり場所が変わってしまった。もし自分で飛んできていたら、と思うと背筋が寒い。
「もしかして」
ヘディウはこのことを見越して船を呼んだのではないだろうか。今更ながらに、あの守人の偉大さが身にしみる。
「なんだか、前に来たときより変…」
「……仕方がない…基底部から混乱させられてるから…」
「でも、…サスクは嫌がっている。ねえ、聞こえるのよ、あの子の声」
うっすらと目に涙をためて呟くデル。それを見て息が詰まった。
自分が愛しく思う女性が傷ついているのに、自分は何もできない。手を差し伸べて助けることは出来ない。それが辛かった。彼にはサスクの声は聞こえない。
「…嫌がっているなら、取り戻しに行こう…」
やっとのことで喉から搾り出す。
「サスクのために、彼女を取り戻しに」
「…うん」
頷いた女の瞳にもう涙はない。
賑わっていた閲覧室。かつては人以外にもいろいろな生き物がここに集まっていた。しかし、生きているものの姿はない。風ですらそこを通り抜けていくことを拒んでいるような、そんな静寂。
カウンターに寄って司書の姿を探してみるものの無駄に終わった。代わりに黒い存在が数人飛び出してくる。男か女か、いや生き物なのかそうでないのか、それすらも分からない。
「分かってるのは…この人たちをどうにかしないと僕達は先にいけない、ってことだね」
意識を集中し両手に光球を生み出す。デルも無言で腰を低く落とした。
気が動く。風が生まれる。自分たちを傷つけようと、敵意がまっすぐに向かってくる。
「…お前を始末すれば、基底部に入れる存在はなくなる…」
フードの下の、いやらしい黄色の光がそう語っていた。
「アリトンさんっ…！」
あの椋犬のような司書の姿がよぎった。
「あのくたばりぞこないは…我らが主が消した」
「……！！」
サスクではない。彼女はそんなことはしない。分かってはいても、最後に見た冷たい目がまとわりつく。
「信じない…」
「それは自由だ。が、事実」
打ち付けてくる気は強く、眼も開けていられない。そのうちデルは無理に眼をあけることをやめた。心を落ち着け、気の出所を探る。かつて、狩を行っていたときのように全ての神経を策敵に回す。
目を閉じた闇の中、いくつかの気の流れがあった。バレムが出す気は分かる。守りの気だ。
「目で見れば、気が持っている闇に引き込まれてしまう。引き込まれたらおしまい」
流れを感じ、出所を掴む。いくつもいくつも流れてくるそれを無意識によけながら、発信元に近付く。
「！」
眼を開き、目の前の空間に躊躇なく拳を繰り出した。手ごたえはあまりなかったものの、明らかに気の流れが動揺している。
「こ、これは…」
バレムが声をあげた。
「デル、もう一度、もう一度！」
「分かった！」
同じように目を閉じて気を探る。先ほどより辛くないのは気のせいだろうか。難なく見つけ、今度は渾身の蹴りを繰り出した。そこにバレムが何事かを呟きながら気を放つ。
「戻って、来い！」
あたりがようやく静かになった。カウンターから閲覧室にかけて、台風でも直撃したのかと思うほどすさまじい混乱振りを見せている。
「…」
今更ながら気の流れが強かったことを思い知らされた。
「こら！」
バレムが何かに向かって怒鳴っている。そちらに目をやると、黒装束が倒れていた。数人いたはずのその存在だが、今は一人しかいない。青年が黒い外套を引き剥がすと、そこにはギンカの姿。
「しっかりしろギンカ！」
「…んあ…よぉバレム、朝か？」
「朝か、じゃないよ！」
ギンカは身を起こしながらあたりを見回す。
「…なんだ？」
「こっちが聞きたいよ」
あきれ過ぎて疲れた、というようにバレムがうめく。
「いや…なんだか俺にもよく分からん」
「……君は、君の意識をいくつかに分けて、僕達を攻撃してたんだ。足りなくなった分は、「主」とやらに変な気を入れられて…。だから君だって分からなかったんだけど…」
「そうなのか…。すまねぇ」
申し訳なさそうに頭を掻く。
「多分、「主」はそうやって自意識を薄め、残った殻を動かしてた…。ギンカ、大丈夫かい？」
「ああ。あの蹴りですっかり意識、戻っちまった」
少しはなれたところで様子を見ていたデルに笑いかける。
「ギンカ。僕達はこれから基底部に行く。デルがその鍵なんだ。だから、これからどうなるか分からない。君は、戻ってくれ」
バレムに真摯な眼で見つめられ、少し照れる。
「…ここで退場しろって？…だいたいお前、怪我したらどうするんだ。お前は治癒が苦手だろうに」
「でも」
「でももくそもない。さ、デルさん。行きましょうや、基底部に」
「大丈夫？」
「なあに、治療のエキスパートがいるといないとでは、大分違うだろ？」
にこりと笑うギンカ。
「…ありがとう、ギンカ。私のことは、デルとだけでいいから」
「了解。じゃバレム。行こうぜ。あのお嬢ちゃんのところに」
「…バカだよな、ほんと」
けれど、来てくれてうれしい。照れるからいえないが、心の中でバレムは礼を言った。