生きることは
「また、お前か」
「サスクを返してもらいに来た」
目の前の存在は、少女の姿をしてはいない。デルよりもっと年上の、女そのものだった。
「あの娘はもういない」
妖艶に笑い光の文字を揺り動かす。そのたびにどこかで振動が起こった。世界が消えているのか生まれているのか。それははっきりとしなかったが、どちらにしろ作為的に起こしていいものではない。
「私が、サスクだ。もっとも年齢は大分高いが。…何を思ってお前がサスクと呼ぶのかは知らぬ。けれども、他にはいない」
「ううん、いる」
天も地もわからない空間を、恐れ気もなく踏み出す。いくつかの文字が彼女に向かって飛んできたが、それは歩みを阻むものとはならない。バレムとギンカが傷ついたデルを癒し続けているからだ。
「声が、聞こえるの」
「声」
「そう。いま、この瞬間にも。声が聞こえるから。サスクは、そこにいる」
「…ほう」
片方の眉をピクリと反応させる。
「嫌がっている。貴女なんか、きらいだと」
「私も嫌だ。私は私でしかない。そんな存在などあるはずはない」
「…貴女には！」
後一歩踏み出せばお互いの間合いに入る。そんな距離でデルは歩みを止めた。
「貴女の本当の体は！…存在しないの？なぜ、人を奪うの？」
「……お前の知ることではない」
翼が動いた。サスクが持っていたような虹色の半透明の翼ではなく、アゲハ蝶のような巨大な翼。衝撃波が容赦なく叩きつける。とっさに目を閉じ顔を腕でかばう。
「くぅっ！」
腕に細かな文字が突き刺さっていた。何の文字かは知らないが、光り輝いていたそれはデルの血の色に染まっていく。
吸われている！
それを引き抜き傷を抑える。その様子を女はあざ笑った。
「あっはっは。言葉は、世界はなんでも吸収するよ。なんでも、ね」
笑い続けながら翼は動かされた。飛んでくる文字を必死でよけながら彼女の間合いに入ろうとするが入れない。
「デル、こっちに！」
ギンカの結界からバレムが声をかけた。けれども、反響がひどく、目を閉じたままではどこに彼らがいるのか分からない。
「どこまでも続くような空間なのに…どうして響くの…？」
わからない。分からないことが多すぎる。
「デルーっ！早く、早く！！」
いつまでたっても暴風の中から動こうとしない彼女を見かねてバレムが結界から飛び出した。
「おいっ！」
ギンカの注意が一瞬それ、その気の緩みが結界を緩ませ、風はそれを弾き飛ばした。直撃こそしなかったがギンカはその場に膝をつく。両手のひらを見ればただれており、これではもはや結界を張ることは出来ない。
「畜生…俺は、役に立てないのか…」
「ギンカ！大丈夫！？」
バレムがデルを抱えて戻ってきた。手のひらを見て一瞬眉をひそめたが、すぐに治癒の気を送る。
「すまない」
「それよりもう一回結界を。デルが、消耗している」
腕からの出血が止まらない。一応の治癒はしたが、どうしてもとまらない。
「どうしてだ！？どうして…」
世界は吸収する。なんでもね。
女の言葉がよみがえった。貪欲に、どこまでも求める。たとえ引き剥がされようと。
「まさか…まだ、吸われている…？」
「まずいぞバレム。短期決戦で行かないと」
「デル、デル聞こえてる？」
顔をあげた。バレムの呼びかけに応えたわけではない。サスクの声がしたのだ。
「呼んでる。私を、呼んでる」
行かなければならない。嫌だといっている少女を助けるのだ。
「デル！」
「バレム、二人で彼女に結界を。そうすれば、世界の干渉を断ち切ることが出来る」
「…分かった」
親友とともに声を合わせデルに気を送った。よたつきながらも女に近付くデルは柔らかい蒼の光に包まれる。
「これでいい。さて、今度は…」
「この人たちの相手だね」
わらわらとあふれ出てくる黒装束。
「考えるなよ！俺たちが生き残るため、絶対に！」
「…ああ。分かってるさ！」
もしかしたら、ギンカと同じように。この図書館にいた人々が分けられてこうなったのかもしれない。けれども、自分達が生きるために考えてはならないことだった。
女は自分の心の奥、そこにまだ違う存在がいることを理解していた。
早く消さなければならない
そう思って必死に戦い続けていた。そうしないと、自分が消えてしまう。忘れ去られてしまう。
「忘れられるのは、いや」
僅かに零れる女の本心。
「私だって忘れられたくない」
彼女をあがめた一族は滅んで久しい。誰も訪れることのない神殿に一人、朽ちていくことを止められないまま彼女はそこにいた。
テリニライの一族が愛した神。戦の女神。どんな男をも魅了し、夜を舞う。蝶のように人々を翻弄し、戦へと導く。それが彼女。
「早く。この心の文字を探して…」
サスクの心が僅かに残っていた。それを書き留め続ける文字がこの部屋のどこかにある。それを消してしまえば全ては彼女になる。
「サスクを、返して…」
意外にしっかりとした足取りでデルが近付いてきた。それを視界の端に見咎め、また翼を動かす。先ほどよりもっと激しく、もっと強く。
結界のおかげか、文字が体に突き刺さることはなかった。けれどもまともに暴風を受けたせいでそのまま吹っ飛ぶ。しのぐ場所もないこの部屋では仕方がない。
「邪魔をするな」
冷たい声で言い放ち、再び探し始める。風で舞う文字達を鋭い眼光で睨む。その中のほんの僅かの、黒ずんだ文字。今にも消えそうな、それでもまだ必死で存在しようとしている。
「…」
風を操りそれを手元に落とす。
「…間違いない。やっと…やっと私は私になる！」
歓喜に震えた。風も踊りながら吹き続ける。また必死で駆けてきたデルは、そのただならぬ様子にすさまじく嫌な予感を覚えた。
「だめーっ！！」
もとよりそんな静止など聞くはずはない。それは分かっていたが、言わずにはいられなかった。僅かに残された、サスクの意識がそれをとめてくれることを期待していた。
けれども。
音もなく、それは女の手の中でボロボロに朽ちた。
その瞬間、デルたちの世界からサスクの存在は消えた。デーフェンリールの両親ですら、彼女のことは記憶に残らない。もとより存在しなかったことになってしまったのだ。
「あ……ああああっ！」
強烈な喪失感。血の涙を流しながらデルは叫ぶ。
「ふふふっ。これでお前達が私を追いまわす理由もなくなった。さあ、出て行ってもらおう。ここは私のフィールドだ」
「……サスク…」
「なんだと！？」
驚愕に瞳が見開かれる。目の前の人間達は、たった今消した存在のことを最初からなかったものと認識したはず。なぜだ？
「なぜ、何故その名を呼べる…？」
バレムとギンカが黒の存在をかわしつつ叫んだ。
「人の…俺たちの心を舐めるんじゃない！」
「何のための僕達の本なのか！心は、文字だけで計れないんだ！」
「そう…」
必死で戦い続ける男たちの声を聞いてデルは女を睨む。
「そんな…文字だけ消したからといって！サスクの、あの子の存在を全て消してしまえるほど！私たちの心は単純じゃないの！！」
腰から短剣を引き抜き構える。血の流れる痛みはもう感じない。結界のおかげか、あるいはもうそんな感覚すら分からなくなったのか。
「そんなもので私にかなうと思うか！」
私は女神。また再びあがめられるため、私は…。
「私は、私が生きるために闘う！貴女は…貴女も生きたいのなら闘って見せてよ！」
一声吼えて突進してきた。
女はデルが飛び掛ってくる直前、近くの文字を手に取り鋭利なナイフに仕立てる。流れるような動作で横になぎ払った。その切っ先は寸分たがわずにデルの胸元をかき斬った。鮮血が女にかかる。
「落ち零れが、私にかなうか！」
吐き捨てて、崩れる彼女を一瞥。その視線には明らかなあざけりと優越感。
「さあ次はお前達だ。先ほどから目障りだった」
ゆっくりと指を男たちの方へもたげる。指先に光球が生まれ、彼らをからかうように撃ち出す。
「あっはっは。さあ逃げるがいい。どこまでも、滑稽な道化のように！」
面白くてたまらないというように撃ち続けた。笑い声が無限に続く部屋をこだまする。
「くそっ…どうすれば…」
「デル…デル！」
何も出来ないままひたすら彼らは逃げた。その隙を塗って黒い存在が襲い掛かってくるので、女に近寄ることが出来ない。
「デルーっ！」
動かない彼女にありったけの思いを込めて叫ぶバレムだが、そればかりに意識を集中させるわけにもいかない。歯噛みしながら闘うしかなかった。
「…もういい加減飽きてきたよ。じゃあ、さようならだ」
冷淡な声。覚悟を決めた二人。けれども衝撃が来ない。気を叩きつけてきていた黒の存在も消えつつある。
「えっ！？」
見れば、女の胴から短剣の切っ先が見えていた。