forget-me-not blue
「ごめんなさい…サスク。私にはもう……あなたの声が聞こえないの。貴女の本当の声が」
震える手で短剣をにぎしりめる。暖かい血が手を伝う。
「…っはっ！」
「ごめんなさい。でもね、私の大切な人たち…傷つけるのは…嫌…。だから………」
手からナイフが離れた。デルの血に濡れたそれは、基底部の底へと向かう。けれども、デルの短剣は異形と化してしまった女の体内に納められたままだ。
「私は…ここで…祈るよ…」
貴女がして欲しいこと。分かったよ。だからこれ以上は傷つけないで。
女がナイフにした文字。寂しくてたまらないと一人泣く女神の心。それはデルの傷口から深く彼女に入り込んだ。その一瞬、朽ちた神殿の幻影すら浮かんだのだ。
女は、だから選んだのかもしれない。無意識のうち、自分の本心を知って欲しいと。自分にはむかい、本気で刃を向けてきたこの女に。
「…イノリ…？」
「私に出来るのは、それだけだから…」
忘れないで欲しい。誰かに知って欲しい。忘却は嫌だ。忘れないで。お願い。
「…忘れ、ないから…」
わたしも、忘れられたくないから。勿忘草の色の瞳が笑みの形に曲げられる。それに応えたのか。一瞬だけサスクが微笑んだ。いなくなってしまった少女が。初めて笑ってくれたときと同じ、底抜けの無邪気さとともに。
直後に二人は絡まりながら底に落ちていく。気がついたバレムが手を伸ばすが届かず、追いかけようとしたがギンカに止められた。
「なんで！！？」
「バレム、早くここから出ないと、図書館が動いているんだ！異質なものを排出しようと、何年かぶりに！！」
「そんなことどうだっていい、デルが、デルが！」
「バカ野郎！図書館に排出されたら、どこに飛ぶか分からないんだぞ！ただでさえ最近のごたごたでこのあたりの空間座標がごちゃごちゃになってるんだ！」
親友に肩をつかまれ怒鳴られる。
「俺たち、もとの世界に戻れなくなる！」
「それでもいい…僕は、デルと…」
「ダメだ！底に落ちるのと排出されるのは違う！底に落ちるのは、図書館の中にまだいるって事だ！」
「…ギンカ…」
「お前、あの人見つけたいんだろ？あの人助けたいんだろ？」
即座に頷く。
「ならここからいったん出るんだ！そうしないと、追い出されたらここにもう二度とは入れない！」
螺旋図書館は生きている。一度追い出した存在は全て覚えている。追い出されたらもう二度とデルには会えない。
「…分かった…」
「急ぐぞ！」
二人の気をあわせて基底部からの脱出を試みる。背後から見えない手が伸びてきているのは分かったが、振り向かなかった。
「がんばれ！ここから抜ければ大丈夫だ！」
デルがいたことで彼らは基底部に存在を許されていた。その鍵がなくなった今、二人は異質で、存在してはいけない存在だったのだ。
ヘディウが部屋に入ってきた砂を掃き出している。正確には砂漠ではないが、物事を正確に見なくなった人間が多すぎる。
だから、ここはずっと砂漠のままなんだよな。
そんなことをおもっているところに来客。
「誰だい？」
戸口から顔を覗かせると、精悍な顔つきの男。
「？……」
見覚えはなんとなくあるような…。けれど、記憶はあいまいだ。長く生き続けているせいなのだろうか。苦笑する。
「お久しぶりです、ヘディウ」
その声に聞き覚えがある。
「あんた…バレムかい？」
にこりと男が笑う。
「いやー、変わったねぇ。もう何年になる？」
「四年か、五年ですか」
「そうか、もうそんなになるんだね。あの頃のあんたはまだ子どもの顔してたけど。うん、いい男になったね」
「確かに…、あの頃はまだ大人になって一年も経ってませんでしたし」
「そうか…、あんたはあの…ま、こっちおいでよ」
立ち話もなんだから、と招きいれた。
「変わっていませんね」
「早々変わらないよ。住んでるあたしが変わらないんだから」
「…なるほど」
「さ、お茶にしよう。せっかく茶のみ友達が来てくれたんだ」
ニコニコしながら慣れた手つきでお湯を注ぐ。お茶菓子を探し当てたものの、かなり古いものだったので肩をすくめて席についた。
「約束守ってくれてありがとうね」
「ここまでくるのに時間がかかりましたよ。僕はもっと北の方に住んでいますから」
「なるほどね」
「ナーアウの、デルの兄に近くまで送ってもらうはずだったんですが、戦争中で…。それがなんとかなったんで、やっとここに来られました」
「戦争、か」
「もともと、あの例の一件が元で起きたものですけどね」
ため息をそっとついて一口。
「けれど、ナーアウもシアニアもポシニアも、もともと同じ海の民とはいえ違う考えのもとに生きている。僕は争いは嫌いですが、生きていくためには闘わないといけないときもあるのも事実です」
「そうだね。自分をつぶしてしまいたくなければ、闘うしかないのは確かだ」
ヘディウは寂しそうに語る男を優しくみつめた。
「それをあの頃の僕はあまり理解していなかった…。けど、デルが僕に教えてくれた。生きていくことは、闘うこともあると」
「デル…」
懐かしい名前だ。目を細めかみ締めるように呟く。
「あの人はまだ？」
「うん。でもきっとくるよ。あたしと約束したから」
「僕も…待たせてもらっていいですか？」
「歓迎する。一人でいるのも大分つまらなくなってきたところだ」
にやりと笑う。
「でも…あたしはいつまででも待てるけど、バレムはそうはいかないだろうね」
「……その覚悟ではいるんですけど」
「いい覚悟…といえるかな。まあいい、また船を呼んであげるよ」
「えっ？」
「どうせ、あの図書館のことだからうろうろうろついて、来客を困らせているだろうからね。…座標がわからないんだろ？」
苦笑して頭を掻いた。あのごたごた以来、螺旋図書館の空間座標が分からなくなってしまった。バレムがここに来たのは、もしかしたらまた船を出してもらえるかもしれないと、僅かな期待をもっていたためだ。
「そうだと思った。…他に、誰か連れて行きたい人は？」
「そうですね…。じゃあギンカとドムを」
長くナーアウの集落に滞在するうち、ドムとはとても親しくなった。デルのことを思う気持ちは、多少種類が違えどバレムと同じだ。そしてギンカ。あのごたごたをともに生き抜いた親友。彼には、全てを見届ける権利がある。
「分かった。その人たちのことを思い浮かべて。あたしがここに呼んでやる」
言われるままに二人を思い浮かべる。ものの数瞬もしないうちに新しい来客が二人やってきた。
「ドム、ギンカ」
「あれっ？バレム？」
「ここは？」
「デルに、会いに行かない？」
状況がよく分かっていない二人だが、そう聞いて即座に頷いた。
「そう来なきゃ」
ヘディウは限りなく優しい笑みを浮かべて印をくんだ。いつか見た船が音もなく舞い降りてくる。
「さ、行っておいで。そんで、あの子に、茶飲み相手が待ってるって伝えてくれ」
「分かりました！」
遥か離れた次元に、大きな図書館がある。
その名は螺旋図書館。
全ての世界を生み出し、全ての世界の始まり。
その奥、深き懐に少女がいる。
忘れないでくれと、願った少女がいる。
その少女のために祈り続ける女がいる。
もはやそのことを知るものは、少ない。
END