goldfarbig Engel ５

「…ものすごい弱み握られた気がする…」
　涙を流しながらカルサートはパソコンの前に座っていた。
「まさかばれてたとは…」
　キーボードの上で指が踊る。次々に映し出されていくデータを見ながら、知り合ったハッカー仲間にも声をかけてみようと思い立ち、連絡をとってみた。何を調べようとしているのか、自分でもはっきりしない。ただ、シリアの直感が気になる。
「…うーん」
　昼間の攻防でできた瘤をなでながらデータの羅列を眺めて、ふと公安のデータバンクに行ってみようと思った。そのときにハッカー仲間から連絡が入る。
『公安のミルセ、動きあり』
　その一行だけしか書かれていないメールだったが、カルサートは背中がぞくりとした。
「ミルセって、あのミルセか？」
　世界規模の犯罪を取り締まるには国際間の協力が必要である。公安委員会はユーフィース国内の犯罪捜査を手がけているが、中には優秀さを買われて国際機関に出向している人物がいる。そのうちの一人が、ミルセだった。
　ミルセ＝マートリー。若いながらもその決断力、行動力、聡明さを買われて、公安員として働くよりも国際機関で働くほうが長いという人物である。
「シリアが言ってた事、もしかしてあたってるかもな」
　そんなことを思いながら突破をかけるのだった。

　事務の仕事を手伝い、すっかり暗くなってしまった道を急ぐシリア。相変わらず寒く、まだタンスのにおいが残っているコートをしっかりとあわせながら歩いていたが、靴紐が解けかかっていることに気がつきかがむ。その瞬間、頭が一瞬前まで存在していたその場所を通り過ぎるものがある。
「……」
　なんとなく嫌な予感はしていた。そっと顔を上げると、塀に刺さった小型ナイフ。
「下手したら、私死んでたかな？」
　口を尖らせつつ息を吐き、来た道を振り返る。当然といえば当然だが、何の気配もない。研究室群は郊外にあるので人気は元からないのだ。
「………冗談にしては、たちが悪いわ」
　塀を背に公安に連絡し、しばらく待つことにした。
「おや、シリアさん…」
　ここ最近、毎日のように聞いている声、グスタルドだ。ライトが消され、彼女が立っているそばに車をつける。
「なぜこんなところに？」
「いや、ちょっと」
　歯切れが悪いのもあたりまえで、なんと表現すればいいのかよくわからないのだ。少し迷って、あごで刺さったままのナイフを示す。
「これは…？」
「よくわからないんです。公安呼んだのでまあ大丈夫だとは思いますが」
「…一人でこんなところにいるほうが危ない。私も居ましょうか？」
「いえ、大丈夫でしょう。…ほら、もう来ました」
　公安のパトカーの音が聞こえ、回転灯の赤色が届く。ばたばたと戸の開閉音がし、数人の公安員がやってきた。
「で？」
「これですが」
　すぐさま確認をはじめ、写真などを取り出す。
「うーん。なにか心当たりは？…それ以前にこちらは？」
「グスタルドといいます。通りかかったので…女性一人にしておくのは危険かと思い」
「そうですか」
　年かさの公安員はシリアのほうに向き直る。
「で？」
「で、といわれても心当たりなんかありませんよ」
「まったく？」
「これっぽっちも」
「…」
　あごに手を当てしばし考え込んでいたが、シリアに帰ってもいいとの指示をだした。彼女としても、あまり遅くなればジェイが心配するので内心ほっとした。
「送っていきましょうか？」
　黙ったままだったグスタルドが提案したが、シリアは丁重に断った。
「だけどな、あんた今襲われたんだろ？送ってもらえるってんなら素直にあやかっといたほうがいいと思うが」
　主任らしき男が口をはさんだので、そっと肩をすくめる。
「気が付いたことがあればまた連絡をくれ。こっちもこいつ、調べてみる」
「詳細がわかったらよろしくお願いします」
　ナイフを袋に入れて持ち上げる主任に頼み、グスタルドのほうに向き直る。
「…本当に構わないんですよ？私は別に対抗手段持ってますから…」
「女性に対してそんな冷たいことはできない。クィンランドのお国柄、というものですか…」
　さあ、と車の戸を開けられてしまえば無下に断ることもできない。
「すいません、本当に…」
「構いません」
　視線を窓の外に固定し、自分の身に起こったことを考える。本当に心当たりなどないのだ。
　頭に血が上れば何をしでかすかわからないのは、自分でよくわかっている。正しいことはちゃんとそう言わなければ収まらないので、その点で敵を作ることも多い。けれど、刃傷沙汰にまでなったことはない。
「…私、何に気が付いた？」
　どんなことに首を突っ込んだのだ、自分は。わからない。
「この道をまっすぐ行って、最初の信号で右に曲がってください。そしたらそこに小さな公園がありますから、そこにつけれ下されば」
「わかりました」
　その声に、初めてシリアはしげしげと隣でハンドルを握る男を見た。
「わからない…といえば、この人もわからない」
　なぜ、この人は私の居る所にいるんだろう。何か興味をひかれることでもあったのだろうか。
「…まあいいか」
　考えてよくわからないことに意識を持っていくより、今は考えて分かる事を考えなければならない。

「シリア、昨日言ってたことなんだけどさ」
「なに？」
　本当に珍しく、カルサートが神妙な顔をして個室にやってきたので警戒をする。
「最近、何か見られてるって言うか…そんな感じってないか？」
「…」
「どうなんだ？」
「あんた…何知ってるの？」
「いや、気になったから調べてみたんだが、お前相当やばいことに首突っ込んだろ」
「…それねぇ。分かれば良いんだけど、何に首突っ込んだかよく分からないのよ」
　あっけらかんとした返事にカルサートは溜息をつく。
「おまえなあ…ミルセがお前に目をつけてるらしい」
「…ミルセって誰？」
「あの、ミルセだ」
　しばらく沈黙が降りる。国際間の大規模な犯罪捜査を行う時にのみ動く捜査官。さすがのシリアでも、その噂は知っていた。
「ってことは…あれもそれがらみね…」
「あれってなんだ？」
　今度はカルサートが聞き返してくる。口走った事を後悔したが、仕方がないので白状した。
「…おいおいおいおいおい…。物騒過ぎるぞ？」
「かといって私だけじゃどうしようもないでしょ？問題は、どこから「私」を見つけたかよ」
　捜査官の事はとりあえずどうでもいい。彼女自身を傷つけたりはしないだろうからだ。それよりも、ナイフを投げた人物の方が数万倍も危険だ。
「同僚は…疑いたくないけど…」
　彼女が巨大な犯罪の可能性に気がついた事を知る人物たちに絞られる。
「まずカルス…は除外できるかな。あんたにそんな甲斐性なんかないし」
「うるさいな」
　じっと聞いていた男が仏頂面で返す。もちろんそんな抗議はきいていない。
「次は司書のリサ。…あとは私の研究室に最近出入りしたひと…リテが最後に来てから」
　パソコンをつけたまま人の応対をしていたので、画面を見た人は、特に関係者ならピンと来るはず。
「でも、最近そんなに人は出入りしてないのよね」
「お前、忘れてるぞ」
「誰を」
「ほら、クィンランドの」
「グスタルド教授？」
「ああ。あの教授さん、なにかっちゃぁお前の個室にいるじゃないか。助手のなんて言ったっけ、エリヤか？あいつが大声でぼやいてた」
「…そう、そうね」
　考えてみればあの人がこの国に来てから、急に人がいなくなり始めたのだ。まさか。でも、もしかすれば。
「そういう話はもう少し小さな声でした方がよろしいですね」
　初めて聞く声に二人は戸のほうに向く。見たことのない女が立っていた。
「…あの…」
「あ、私のこと？私はそこの彼が言ってたミルセ。マッカード研究員、よろしく」
　身分証を出し、二人に確認してもらったあと、すっと利き手を差し出す。シリアは戸惑いながら握り返した。
「で、早速なんだけど、あなたが見つけた事。もう少し詳しく聞かせてくれない？」
「あ、これ…ですか」
　パソコンを立ち上げつつカルサートのほうをみると、微妙に鼻の下が伸びている。
「…相変わらず美人に弱いのか、この男…」
　肩をすくめて画面を見る。その後ろからミルセが覗き込んだ。
「へぇ…この事件とこの事件が…えっ、こいつも？」
「私はなんとなく、なんですけど気になっていて」
「そういう直感は大事にした方がいい。私も大事にしてるから」

　しばらくの間話し合った後、ようやくシリアが一人になれるころには外は暗くなっていた。窓から外をみれば、雪がちらつき始めているらしい。
「寒いと思った」
　とはいえ、突然の来訪のせいで自分の仕事はできていないに等しい。
「ジェイに電話しないとね」
　携帯電話を忘れてきたので公衆電話を使おうと部屋をでる。いそいそと歩いていたら、なにやら休憩室が騒がしい。
「どうしたの？」
　何の気なしに聞いてみたら、ミルセがいなくなったのだという。
「はぃ？」
「本当よ、シリア。手続き待ちで事務室あたりにいてもらうはずだったのに、どこ探してもいないの」
「…それは…」
「ほんと、どうしちゃったんだろうね、最近の研究室…」
　ため息をつきながら同僚がいぶかしむ。中途半端に現状を理解しているシリアには、何もいえなかった。こういう時、中途半端に伝えると余計にややこしくなるのだ。何もいうことができないまま、電話をしにいくのだった。
　なんとか一通り論文に目を通し、そろそろ帰ろうかと戸を開ければ、案の定というかなんと言うかグスタルドがたっていた。
「何か？」
「いや…この間のこと…心配なので…」
「大丈夫ですよ。今度は不覚なんか取りませんから」
「そういうものなのか？」
「そういうもんです」
　彼女の直感は、何か違うとはいいつつ、鋭い警告を発してはいない。だから、少しだけ警戒しながらも、この男性のことをあまり疑う気にはなれなかった。
「でも…直感は外れることもあるのよね」
　研究室から出て伸びをする。精神的に疲れることばかりだ。
「本当に大丈夫ですか？」
「心配性ですね、グスタルドさん」
　苦笑いしながら付け足す。
「あの大騒ぎ見たんでしょう？」
「それとこれとはまた違う」
「…まいったなぁ」
　口に出さずに呟き、向き直る。
「聞きたかったんですが…なぜ、教授は私のことをそんなに気にかけてくれるんですか？」
　疑問がするりと口を飛び出した。
「それは…」
　と言ったきり黙っているので、仕方がなくシリアは家路につき始めた。従うようにグスタルドが後を追う。しばらく、雪の降る中無言で歩く二人。
「危ないっ！」
　突如発せられた声にびくりとして立ち止まる。体を後ろに引き寄せられて、目の前を数本のナイフが通り過ぎた。
「……間一髪でしたか」
「…ありがとう…ございます」
　礼を言いつつ暗闇を凝視する。そこに、いる。
「のがすかぁっ！」
　どこからともなく現れたやかんの群れはシリアの指した闇に向かっていくが、手ごたえがない。
「どこっ？どこにいったの！？」
「シリアさん、落ち着いてください！」
「落ち着けって、落ち着けませんよ！」
　グスタルドになだめられつつも、なお暴れようとするシリア。そうこうするうちに、突然の衝撃を頭に受けて、そのまま意識は闇に落ちた。