二
　彼女達は長い廊下を歩いていた。リノリウム張りの白かったであろうという廊下は、あちらこちらに汚れが目立つ。
「どうにかなんないのかしら、これ」
「予算がないって」
「掃除人を雇う？」
「そう。前に私、経理に言いに行ったの。そしたらひどいのよ。『そんなに気になるのでしたらご自分で掃除をされたらどうですか。実際のところあなた達に払う給料でさえも減らしたいくらいなのに』だってさ。頭に来る」
「……なにそれ」
　あきれ返るリテ。と、ふと思い出したように続けた。
「ああ、それで一ヶ月ぐらい前に経理課が工事してたのね。あなたでしょ、シリア」
「思わず頭に来ちゃって、経理課の壁にヤカンめりこませちゃった…二十個ぐらい」
「………そんな余計な事すると、本当にお給料減らされるわよ」
「……もう減ってるもん……」
「………」
　国家考古学研究室が火の車なのは周知の事実である。外国への探査だけは予算が下りるが、国内は自費。シリアやリテのように外国の遺跡を的にしているならまだいいが、国内遺跡を対象にしている学者は目の当てられない状態になる。そういった事で、国内を対象にした学者は民間施設に移って行く。国家の名を持っていても三分の二ぐらいの学者が海外を対象にしている。ところが外国への探査も数が制限されており、学者達は必死で審査に合格しようとするのだった。そう言うわけで、毎年審査の時期になるといろいろな人間模様が見られるのだった。ちなみにシリアは、政府から資金が出ているのでこの審査には最近かかわっていない。
「しっかしなんでこんなにここってお金無いんだろう。なんか変な投資でもやってんじゃないかしら」
「否定しきれないところに怖いものがあるわね。なんだかよくうわさになってるみたいだし」
「実は室長がギャンブル狂で、予算を横領してるとか？」
「いやいや経理が…」
「しっ！」
　彼女達の前を歩いてきたのは室長だった。
「…何か言っていたようだが…」
　彼女達の顔をじろじろ見ながら彼は言った。
「い、いいえ」
「なんでも」
　慌てる二人。
「…ふん、まあいい。ところでクロットフィーナ君」
「はい」
「今晩食事でもどうかな？」
「…は…はあ。いや、今晩は、そう、今晩はちょっと用事が…」
「君はいつもその返事だ。たまにはいい返事を頼むよ。で、マッカード君！」
「………はい」
「いつまで解読に時間をかけるつもりだね。早く終わってくれないと、我々の面子にかかわるのだが」
「誠心誠意、努力しています」
　声が低くなるのがシリア自身にもわかる。室長はそれを感じたのか、それ以上何も言わずにその場を去った。シリアはその背中に向けて盛大に舌を出した。
「…まったく…何よ、あのオヤジ。確かに遅れてるけど…」
　ぶつぶつつぶやきつづけるシリアをリテは必死でなだめる。
「落ち着いてよシリア」
「落ち着いてるわよ〜これでも。そうでなかったらあの頭めがけてこのヤカンを…」
「だからそれが落ち着いてないっていうのよ。その、あたり構わずヤカンを投げる癖、やめた方がいいっていつも言ってるじゃない」
　ポケットにちっちゃなヤカンをしまいこむと、シリアはリテの方をじっと見た。
「…あんたきれいだわ。室長が御執心なのもわかる気がする」
「何を言い出すの、いきなり」
　シリアはウェーブのかかった髪であるが、リテはストレートの髪を肩口で切りそろえている。切れ長の瞳は髪と同じ金茶色。少しきつめ、という感じを受ける以外は、典型的な美人と言えるだろう。
「いいなぁリテは。何もしなくても男の人が声をかけてくれる。私なんか生まれてこの方、ただの一度もそんな事は無い！うらやましいぞぉ〜」
　シリアはいきなりリテの首に腕を巻きつけ締めるふりをした。
「こらっ！シリア！やめて〜。……何にもしてないわけじゃないのよ。こう見えても血のにじむような努力をしてんだから。それに、あなただってきれいなのに」
「そう言ってくれるのはリテだけ。あーあ、どっかにいい男はいないかしら……と、と、どうでもいい事言ってたら、通りすぎるところだった。ここ。原板が置いてあるのは」
「なんかすごく物々しいね」
　扉は電子ロック。扉上部には監視カメラが二十四時間回っている。関係者以外立ち入り禁止の札がかかったポールを脇にどけると、シリアはカードを取り出した。
「まったく。普通の人には面白くも何とも無いのに。こんなところまで泥棒しに来る人がいるのかしら」
「そう言えば聞いたところによると、外からよりも、内部の人間が危ないらしいよ」
「ここならありえそうね。…普通の金額をくれるところで比べたって、まともに給料もらうよりも、これ売る方がよっぽどいいお金になるもの。しかもうちはお給料少ないし」
「リテ？変な気を起こしちゃだめよ」
「しないって」
　扉が開くと、シリアは感嘆の声を上げた。
「すごい…こんなにまともに発掘されるなんて。五千年経ってるなんて思えない」
「本当。まさかとは思うけれど、誰かがいたずらをして作ったなんて事は無いよね？だって、石でできてるとしても、五千年も完全にもつはずが無いじゃない」
「そうとも言いきれないかもしれないわよ〜？だって、今の解釈がすべてとは言いがたいんだから。でも、いたずらだったら、それはそれで大変な事になるだろ〜な」
　軽口をたたきながらシリアは板の一枚を手に取り観察した。
「！」
「…？どしたの？」
「これ、石じゃないよ。少なくとも私の知っている材質じゃない」
「ちょっとそれってどういう…」
「確かにこんなものをそこいら辺にほっておくわけにもいかないわね。厳重警戒が必要になるはずよ」
　リテも慌てて板を取り上げるが、彼女にもわからない材質だった。シリアはこれと同じようなものを触った事があったことを思いだし、胸元から蒼い石のペンダントを取り出した。
「おんなじだ」
「これはなあに？」
「月のかけら」
「はあぁ！？あなた、熱でもあるんじゃないの？」
「ないわよ。ちょっと地室に行ってくるけど、あなたどうする？」
「地質学研究室？行くわ！何があっても行くわ！」
　リテの突然の豹変振りに驚いたが、シリアは何も言わなかった。

「水晶のようだけど組成がまったく違う。一体これをどこで？」
「『予言書』のかけら」
「重要文化財破損…」
「冗談よ。ちょっと手に入ったもんでね」
「とにかく、おそらくこれはこの世界には無いものだ。ちょっとこれ貸し…」
「だぁめ、トミー。これは私の大切なお守りなの」
　トミー=ピットは地質学研究室の中では一番の若手で、リテと同じく、シリアのスクール時代の友達である。
「すぐかえすからさぁ」
「…期限は三日ね」
「さんきゅうシリア♪」
「さてと、帰ろうかリテ。…リテ？」
　ふと周りを見まわすとリテがぼんやりと立っている。その視線の先には、彼女達より二歳年上でこの研究室の若手内ではリーダー格になるフロスト=ヴィンダースがいた。
「かっこいいなあ。いつみてもすてきよね…でもこのままじゃいつまでたってもわかってくれないから、あたってみよう」
　シリアの呼びかけも聞こえないほど燃えているリテはフロストの方へ近寄って行った。シリアは一人残されてしまった。
「どうやらクロットフィーナさん、フロスト先輩が好きみたいだね」
シリアから受け取った石を触りながらトミーがぽつりという。
「道理でここに来るときひどく燃えていたわけね。まあわかる気もするわ、私だっていいなーって思っていたんだもの」
「ここに来る女の子はほとんど先輩目当てなんだ。そのせいで、やる気のある子が来なくて困ってる。燃えてるのは最近男ばっかり…」
「はははは。確かに困るわねそりゃ」
「かと言って先輩に恋人なんかできたら、今度は女の子達が入ってすらも来なくなるだろうし、今いる女の子もやめかねない」
「うーん。その方が深刻ね」
　薄暗い部屋に男ばっかりが詰めている図を想像して、彼女は冷や汗が背中に流れるのを感じた。
「というわけでシリア、お前ここに来ないか？スクール時代にこういう授業も取ってたろ？女の子、大歓迎。ついでに彼氏もついてくる」
「？？？」
「俺」
　ぷっと吹き出すシリアに、なぜか微妙な表情のトミー。
「冗談ばっかり。さあて、私も恐怖の缶詰仕事をしないといけないし。リテは置いて帰ってやる。悪いけどそう伝えといて」
「わかった。……シリア、あんまりしょいこむなよ。息抜きぐらいたまにはした方がいいぜ。俺、付き合うからさ」
「ありがと」
　後ろ手に手を振りながらシリアは研究室を出る。扉のむこうからリテの感極まった声が聞こえてきた。
「…どこをどうしたらあんな声が出せるんだか…普段は物静かなのに、案外に情熱的なのね」
　彼女は再び原板が置かれている棟へ向かいながら、トミーに貸してきた蒼い石のことを考えた。
「あれは夢であって夢でないものだから、この世界のものではない。でも夢の産物のくせに、何で実体化したままなんだ？」
　このあたりがポイントなのかな、と思いつつ原板の部屋に入った。
　原板の数はざっと三百枚はあるだろう。彼女はその一つ一つをじっくり観察していく。二十枚位したところであっただろうか、原板の裏に奇妙な紋が書かれていた。調べてみたところ、その原版だけに刻まれている。
「おかしいな…いくら消えかかってるったって、これが報告書に載ってないはずは無いけど。全然書かれてなかったような気がする…」
　かばんの中から、この仕事に就くときに渡された報告書を取り出してみると、そこにはちゃんと書かれていた。しかし、あまりにもはっきりしないので傷ではないかと言う推測だった。許可をもらってシリアは写しを取ると、どこかで見た事があるような気がした。
「う〜ん…」
　写しをじっと見ていると、インターフォンの音がした。
「リテ？どうぞ」
　手元のスイッチに向かって言ったが、なおも音はする。仕方無しに扉を開けると、やはりそこにはリテが立っていた。
「どうぞって言ったのに」
「私は入れないのよ、カード持ってないんだから」
　あっそうかと納得したシリアにリテはあきれてこう言った。
「相変わらず一つの事に集中すると、ほかに気が回らなくなるのねぇ」
「ごめん。で、どうだった？脈はあった？」
　赤くなってリテは答える。
「…今日仕事が終わったら一緒に食事に行こう、って」
「おおっと、リテに春がやってきた。この幸せ者〜」
　またもやシリアは、リテの首を締めるふりをする。
「でも、地室の男性陣もかわいそうに」
「どういう事、シリア」
「トミーがぼやいてたんだ。先輩目当てで女の子が入ってきてたから、先輩に恋人ができると今度は女の子が入ってこなくなるって」
「私、まだ付き合うって…」
　慌てて弁解し始めるリテの様子をうれしそうに見ていたシリアは、冗談めかした口調で彼女に聞いた。
「ハイハイ。幸せ者さん、ちょーっとこれ、見てもらえるかなぁ？」
　紋の写しをリテに見せる。
「あれ…？これ、どこかで見たことある」
「あなたにも見覚えがあるのね。それじゃあかなり有名なはずだけど、どうして報告書に書かれてなかったんだろう」
「これはどこから出てきたの」
「たった一枚だけ、原板の裏に刻まれていたの。でもおかしいのよ。報告書ではほとんど触れられてない」
「変ね。報告書を書く人だって、かなりの学者のはずなのに」
「また書いた人に聞いてみる。それより今は、この紋をどこで見たか、よ」
　二人で考える事数分。部屋中を引っ掻き回し、ヤカンが飛び交い(もちろん飛ばしているのはシリア)、歩き回っていたが、二人同時に答えを見つけた。
『ゴーシュの遺跡だ！』
　ゴーシュ遺跡は彼女達の国の東端、シムーン市に存在するこの国最大規模の遺跡とされている。しかし『予言書』が書かれた年代よりもずっと新しいものだった。
「まいった。ゴーシュとはね…」
「本当に。でもそうだったら、年代が完全に狂ってくるわ。今までの歴史観はガラガラと壊れちゃう。ところでこの板、どこで発掘されたの？」
「報告書ではミゼラム市って書かれてた。シムーンとミゼラムはかなり離れているのに」
「やっぱりこれ、いたずらじゃないの？」
「よくわかんないや、確かめに行かなくちゃ…はあぁ」
「何、どうしたの、らしくないわね。いつもだったら外に出られるって喜ぶのに」
「いやすぐ出るけど、今月こそは服を買おうと思ってたのに、また国内調査が入っちゃった」
「え…でも政府からお金でてるんじゃなかった？」
「それは外国調査だけなの…」
「………つらい、本当につらい事よね……」