三
「やっぱりどこも満室ですか」
「今の時期はちょっとね。狩のシーズンですから。もうしわけありません」
　あまりすまなさそうでもない口調で予約会社の人間は言った。
「どうだった？」
「どこもだめ。仕方ないからキャンプでもするよ。それよりもリテ、人のことより自分の事を心配しなさい。デート、がんばれ」
「ははは、ありがと。あなたも無理しないようにね」
　キャンプ道具を引っ張り出して、リテの見送りの元にシリアは車を走らせた。彼女達の国の中心であるシティからゴーシュの遺跡まではざっと千キロ。シリアはハイウェイに入ると百キロほどで飛ばした。半日ほど走らすとやっとシムーン市に入った。しかしもう日が暮れてきてどうしようもない。
「こりゃもうだめだな…ここらへんで野宿か。あんまり好きじゃないんだよなあ、このあたりで野宿っていうのは。身の危険を感じるわ」
　くだらないことを考えながら完全に日が落ちてしまう前に野宿に適当なところを見つける。
「板に刻まれてる語法は、ゴーシュの頃にはもう無くなってるのに」
　考えれば考えるほどわからなくなる。そのうちシリアは深い眠りに落ちて行った。空に昇った月は満月だった。

　シリアの発表した月の魔物とは、こういうものである。
『人間の意識のうち、負の部分が拡大化された一種の幻想の産物。しかし幻想だけにとどまらず、現実世界に多大な影響を及ぼす』
　月の魔物は、これと言った特定の姿を持っていない。その時代時代で様々な人間の姿を取る。意志力が強く、現在の生活から解き放たれたいと思う力が強い人の姿だ。そして多大な影響というのが、時として大量殺人事件として現れるのだ。シリアの家族はその事件に巻き込まれて命を落とした。そのとき、月の魔物の姿はシリアその人だった。しかし彼女は、自分のしがらみから解き放たれたいという心が自分の家族や友達を殺してしまった事を認めた。人々が嫌がり存在を認めまいとする醜い心を真っ向から見据えた。そしてもう一人の自分となった月の魔物と出会ったのだ。その出会いを経て、月の魔物を構成していた負の感情は分散し、彼女自身の負の感情も戻ってきた。心は単純に正負の分けられるものではない、仮に分けられても、片方が無くなってしまっては本当の人間とは言えなくなる、と言いながら。そしてもう月の魔物は現れないはずだった。
　シリアは夢を見ていた。彼女は不思議な空間に立っていた。ここは以前、月の魔物と邂逅を果たした空間に似ている。あの時と違うのは、様々に変化する空間だったのが蒼い色だけで統一されていた。
「今度は何よ…」
　辺りをみまわしても、ただ蒼い空間が広がるのみ。しばらく何もしないでいたが、何も反応するものがない。この空間にいる以上なにかがシリアにコンタクトを取ろうとしている事はわかっていたのに、やはり何も反応しない。苛立ちを隠しきれず、シリアは語気を荒げた。
「一体何なのよ！私、なんか悪いことしたっての！？」
「……ではなぜ自分をそんなに押さえるのです？」
　突然の声にシリアは肩を震わせる。聞こえた声は、自分の声だった！
「だれ？」
　なんとなく予感をしながら目の前に立っている女性に彼女は訪ねた。
「私ですか？私はあなたです」
「…えっ…でも、私はこんなにきれいじゃない」
「正確に言うと、あなたがこうありたいと願っている部分です。あなたの叫びと満月が共鳴して私が現れました」
「もしかして……実体化してくれるの？」
　ものすごく期待に満ちた目でシリアは幻想の自分に聞く。が、幻想のシリアは表情を変えずに冷静に答える。
「いいえ。それはオリジナルの押さえが強すぎるので無理です。私の力では及びません」
「押さえ…」
「そうです。もうあなたに枷は存在しない。それなのになぜもっと自由に生きようとしないのですか。なぜ無理をして本当の自分を押し殺すのですか」
「私が無理をしている…？」
　思い当たる節はある。
「あなたは彼を解き放ってくれました。あなたにも自由になる資格はあるのですよ、オリジナル」
「彼って…もしかして月の魔物の事…」
　頷く幻想のシリア。
「あなたは自由になることを恐れている」
　シリアはそれを聞くと、なんだか自分がとてつもなく悪い事をしているような気になってきた。図星だったから。難題と言われた『予言書』の解読を任され、期せずして有名になり人の嫉みをひしひしと感じるようになってしまった自分がいやだった。小さなことにこだわり、人々が望むシリア=マッカードを演じ、人の視線を恐れている姿が、今のシリアだった。
　シリアは声を大きくして内心の動揺を覆い隠した。
「確かにそうかもしれない。でも、自由ってどういうことなの？自分に正直に生きて、人に迷惑をかけても自分の自由を押し通す事は、間違ってる事！」
「自由の意味はあなたがよくわかっています。私はあなた。だからあなたが知っていることも、あなたが感じていない事も知っています」
「じゃあ私に教えてよ。そんなもったいぶった言い方、自分に向かってしないでよ」
「それにはおよびません。私が知っていることはあなたも知っています」
「そんなの、都合のいい逃げだ！」
　オリジナルのシリアは爆発した自分の感情にめまいを起こしていた。体がぐらぐらとゆれ始めた。幻想のシリアは納得した表情をし、言葉をつづけた。
「感じてください。本当は、自分はどんな存在なのか。自分は一体何をしたいのか。正直に…素直に。彼に会えば、月の魔物と呼ばれていた彼に会えば、きっと何かを感じる事ができるのではないでしょうか」
「…どこに行けば……会える？」
「すぐにでも。名はジェイ。あなたの意志で、彼は人間として生きています…」
　途絶えそうになる声を聞きながらシリア・オリジナルはその場にうずくまる。周りはいつのまにか色を失い誰もいなくなった。気が遠くなる中シリアはありったけの声を出して叫んだ。
「何で自分の夢で、こんな目にあわなきゃなんないのよ！」

　シリアは自分を呼ぶ声を感じた。薄く目を開けると十歳くらいの男の子が彼女の肩を揺さぶっていた。
「姉ちゃん、姉ちゃん」
　黒目黒髪の少年がシリアの脇に座っている。
「こんなところで、そんな格好で寝てると風邪引くよ」
　あわてて起きあがり自分の様子を確認すると、寝袋から飛び出していてとても人前には出られないような格好をしていた。夜の闇に隠れているとはいえ、近づいてこられたらはっきりわかるだろう。顔が赤くなった。
「あ、ありがとう。…でも君はどうしてここに？」
　少し首をかしげるようにして少年は言う。
「うーん。どうしてって言われても困るんだけど。僕は姉ちゃんに呼ばれたから来たんだ。さっきまで岩の上で寝てたんだけど、いつのまにかここに来てた…ふわあ」
　大きなあくびをすると少年はシリアの横に行って横になった。
「僕、寝るね」
「ま、待って、あなた名前は？」
「……ジェイ」
　それっきりすうすうと寝息を立てる彼。狐につままれたような気分になったシリアは、もう眠気などまったく感じていなかった。ただ呆然とジェイと名乗った少年の顔を見ながらこうつぶやいた。
「うそでしょう…どうしてこんなわけのわかんない事に巻き込まれるんだろう、私…」