| 六 開け放たれた窓から入ってくる風はとても疾い。シリアはシティの病院へ入院する事になり、病室でぼんやりと外を見ていた。 「…シリア、ちょっと寒くない？病人がそれじゃあ良くないでしょう」 やってきたのはリテ。シリアは彼女のために少し窓を閉める。 「だいじょうぶ？」 「うん。心配かけてごめん。もうだいじょうぶよ」 「あなたの大丈夫はあんまり信用できないからなあ」 「なによそれ。でも本当に心配かけてごめんね」 「いいのよ。でもびっくりしたわ。いきなり入院なんて。しかもカルサート君から連絡が来たんだもの。川の中に落ちたんですって？何も彼のところで着替えなくても、私のところに来ればよかったのに」 「え…その人…」 後の言葉は扉を開けてやってきたカルサートとトミーの声に消された。 「大丈夫か、シリア？だから息抜きしろって言ったんだよ、俺は」 「気分はどうだ〜？」 二人が声をかけるが、シリアの反応は少しおかしい。カルサートのほうを見て、いぶかしげな表情をしている。 「どうした？俺の顔になんかついてるか？」 「シリア？」 「どうしちゃったの、ねえ」 次に彼女が漏らした言葉は信じられないものだった。 「すいませんが，あなたは誰ですか？」 「…！」 「おいおい、冗談は止せよ」 「シリア、あなた…」 「リテの恋人…じゃないですよね。あなた、ヴィンダース先輩にあこがれてたものね。じゃあ、トミーのお友達？はじめまして、シリア＝マッカードって言います」 屈託なく笑うシリア。騒然とする三人。 「シリア、俺だよ。幼馴染のカルサート=フェイリアスだよ」 心当たりがあるかどうか探ってみたがだめだった。 「…ごめんなさい。わからない」 すまなさそうに彼らを見る彼女に、からかっているような様子はなかった。 「心理的な記憶喪失です。一時的なものですから心配は要らないでしょう。恐らく、精神的に負担になっているものが大きくなりすぎてバランスが崩れたんですね」 「そんな事はどうでもいいから、いつ記憶が戻るのか教えてくれよ」 「予測はできませんが、きっとそんなに長くはかかりません。患者といつものように接していればもどります。あせらず気長に治療してください」 「どうもありがとうございます」 リテは丁寧に医者に礼をいうが、カルサートは悪態をついた。トミーはシリアについている。 「何が『あせらず気長に』だよ。結局何も言わなかったじゃないか、藪医者め」 「ちょっとやめてよ。聞こえるじゃない」 シリアの病室に向かう途中、考古学研究室の室長にあった。どうやらリテを探しているらしい。 「どうかなさったんですか？」 「どうもこうもないよ。マッカード君は自分がなんの仕事をしていたのかすらも思い出せないじゃないか」 「えっ」 「だから彼女には解読の仕事を降りてもらうことにする。代わりに君がやってくれないか、クロットフィーナ君。きっとマッカード君よりは早くやってくれると思うのでね」 「そんな…私、そんな難しい仕事、できません。お断りします。マッカードさんの回復を待ったほうが早いと思いますが」 「いつ戻るともわからない記憶を当てにしてか？そんなに国は甘くないのだ。頼んだからな」 言いたいことだけ言うと室長はあわててその場から去っていった。 「もう…私にできるわけないじゃない、あんな難しい事…」 「それよりも、シリアは仕事の事も覚えてないってことだぞ！？一体どうなってんだよ」 「確かにそうね…」 病室に入ると相変わらずシリアは窓の外を見ていた。その隣にはトミーが座っている。 「お、どうだった？さっき君たちのとこのお偉いさんが来てたけど…」 「知ってる。さっきそこであった」 トミーはため息を一つつく。 「しかし、どうしちゃったんだ、シリア。まさか仕事の事まで忘れてるなんてなあ。あんなに自信持ってたじゃないか？」 「心理的記憶喪失だって。何か大きく負担になってたんでしょうね」 「そりゃ負担にもなるだろうな。大きな仕事だったから」 「じゃ、俺も負担だったのか？」 「さあ…」 好き勝手に言う三人の横で、シリアは何も言わない。彼らは彼女の方に向き合うと、声をかけた。 「ね、シリア。本当に、彼のことも、仕事の事も覚えてないの？」 うなずく彼女。 「じゃあ、これの事は？返そう返そうと思ってて、ずっと伸びてたんだけど」 トミーは、彼女から貸してもらったペンダントを取り出す。ところが、それが一瞬消えたような気がした。ほんの一瞬だったが、トミー、リテ、カルサートの三人は消えたように見えたのだ。シリアは気がついた風ではない。 「え？ペンダント？これ、いつの間に持ってたんだろう」 「これはお前が貸してくれたんだ、シリア」 「半年前、ファーロンの事件の頃ぐらいには持ってたような気がするけど」 ファーロンの事件とは、シリアの家族を含む大量殺人事件の事である。 「そうそう。お前そのとき『月』とか何とか言ってなかったか？」 「わからない…」 「とりあえずこれはお前のものだから返しておくな」 トミーは彼女の手にペンダントを握らせると仕事のために出ていった。 「またくるよ」 「私も行くわ。あんな仕事、できるわけないけど、少しはやっとかないと追い出されるからね…」 リテもそこから出ていく。残されたカルサートは非常に気まずい状態だった。 「……」 「あなた、お仕事はいいの？」 出し抜けに聞かれたのでしどろもどろになる。 「あ、お、俺はいいんだよ。今、今はできないから。……ところで、本当に俺の事は思い出せない？」 「…ええ…ごめんなさい」 「じゃあ僕の事も思い出せない？」 いつのまにかそこにジェイが立っていた。驚くカルサートを尻目にジェイはシリアのそばに行く。彼女は手を伸ばしジェイのほほを包み込んだ。 「……」 泣きながらシリアは頭を横に振った。 開け放してある窓から吹き込んでくる風は刻一刻と強さをます。木立がざわめき、急に空には雲が出てあたりは昼なのにもかかわらず暗くなる。嵐の季節が来たのだ。 「お前、誰だ？」 カルサートはジェイに詰め寄る。 「僕はジェイって言うんだ。このあいだ姉ちゃんが何とかって言う遺跡にいってた時に一緒になって、それから姉ちゃんのところで居候中」 「そんな事聞いてないなあ」 釈然としないが、彼らはシリアのアパートに向かっていた。 「しかしなんでまた記憶喪失だなんて…しかもピンポイントな…」 「忘れたかったんだ。枷だったんだよ」 カルサートは独り言つもりだったのだが、思わぬところから返事が返って来た。 「かせぇ？」 驚いて立ち止まる二人。実際には驚いたのはカルサートで、ジェイはそれに合わせて立ち止まっただけである。 「彼女はなんでこんな仕事をしているのか悩んでいたんだ。もちろん仕事をしているときは楽しいし、やりがいがあった。でもいつの間にか最高の考古学者なんてまつりあげられて、やる事成す事が世間の好奇の目にさらされる。そのうち『予言書』の解読を任されて、ますますその肩に重責がかかる。そのために起きた上司や同僚との確執。どこにだってあることだけど違ったのは彼女には相談をする相手がいなかったこと。あの事件以来、天外孤独の身になったから。たった一人で抱えていたんだ」 静かな口調は決して子供のそれではない。カルサートは、しかし、一つの疑問も持つことなく聞いていた。 「外には出さなかった。彼女は弱い人間と思われたくなかった。でも心の底、自分ではコントロールできない部分ではもうはちきれそうなくらい苦しかったんだ。しがらみから抜けたいと願った結果が、あれなんだ。……僕は彼女の意志で生まれてきたけれど、あの様子じゃまた消えなくちゃいけないね…で、君の事を忘れたのは、君の事をいつも考えていて、かつ嫉んでいたから。彼女にとって君は常に特別でありつづけた。何も言わないけど、月は知っている。君が博士号をとった時、彼女は泣いた。なぜ泣いたと思う？」 何も言えず立ちすくむカルサート。 「君に置いて行かれてしまう、別世界の人間になってしまう、もう、追いつけない。そういって泣いたんだ。自分もがんばっているのに、なんでこんな目にあうんだろう。そのときから彼女には何も見えちゃいないんだ。なにも、ね」 「あいつは昔から、いっぴきおおかみなところがあったからな…でも、そんなこと言ったってしょうがないじゃないか」 「そう。しょうがない。それを彼女もわかっているから何も言わずに黙っている。今まで君に対してそんな事を言ったこと、あったのかい？」 「いやないけど…でも、もっと気楽に楽しく生きていけば…」 「確かにその通り。それもしっている。けど、聞くけど君がもし同じ立場だったら、同じことがいえるかい？慰めというのはその人と同じ立場に立ったときに、同じことがいえるかどうかでその真価が問われるんだ。相手の事をよく考えて言わないと、単なる自己満足にしかならない。それがわかっているのなら言ってあげればいいと思うよ」 二の句が告げられない。黙り込まざるを得なくなった彼にジェイは続ける。 「今の彼女の姿は彼女がそう在りたいと思った姿なんだ。必要以上に自分を責めることもなく、悩む事はほんの少しだけ減った。屈託なく笑う彼女の笑い顔を見ただろ？」 リテと話をする彼女の顔は、今までに見たことがないほど満ち足りてはいなかったか。 「だけどね、それは本当の彼女ではない。たとえるならジグソーパズルのピースがかけているんだ。探さないといけないんだけど、今はちょっとつかれすぎているから。少しだけ休ませてあげようよ。姉ちゃんを今休ませてあげないと…」 最後は子供の口調に戻る。カルサートは口を開いた。 「お前は一体なんなんだ？」 「僕は姉ちゃんの意志力で生まれてきた。もともとは実体を持たない、人々が月の魔物と呼んでいる存在の、パーソナリティさ」 「……今はシリアの意志力が弱くなっているから…」 「そう、もしかしたら消えてしまうかもしれない。まあすぐ消えるというわけではないだろうけれどね」 しばらく考え込んでいたカルサート、何かを思いついたらしく口を開く。 「シリアがいないのなら何かと不便だろ？しばらく俺のところに来てみるか？」 「いいの？」 「都合がわるけりゃこんなこと言わないぞ」 「確かにね」 「決まり、でいいな」 「うん」 「よし！」 突然声を大きくするカルサート。 「働かざるもの食うべからず。シリアのところではどうだったか知らないが、俺のところでは手伝いをしてもらうぞ……ってなんで笑ってるんだ？」 笑って息切れをしているジェイは応じる。 「だって兄ちゃん、姉ちゃんと同じこと言うんだもの。僕は姉ちゃんのところで『そこにあるものは使う』とか言われて、手伝いしてたよ」 「………あう……」 苦い顔をしながらカルサートは空を見上げた。今にも泣き出しそうな空だった。 |