| 六 「そういやぁ、指切っただけで貧血起こした事、あったよねぇ…私が知ってるだけで二十回ほど…」 気がつくと彼はベッドに横たわっていた。彼の顔を覗き込むようにして座るシリアはすでに疲れ切っている。頭の中にこびりついている光景を払いながら彼は聞いた。 「ここは…？」 「血痕はないよ。ここは親の寝室。あんたにうろちょろされるとうるさくて調べ物ができないの。頼むからここで寝ててちょうだい」 一応体裁として依頼の形を取っているが、実際は命令だった。現に、口調の後半はかなり強くなっている。それだけ言うと彼女は出て行った。言われている事ももっともだし、何より彼はまだ気持ち悪かったので、言われたとおりここで横になっている事にした。とはいえ、こんな昼日中から寝られるはずもないのでぼんやりと周りを見渡す。別に何の変哲もない寝室である。ベッドがあり、机があり、本棚があり……カルサートは違和感を感じた。無造作に置かれている本の中に、非常によく使われていたのかボロボロになった本があった。不思議に思った彼は起き上がってなんとなく手に取る。ハバード＝マッカードのつけていた日記だった。いけないとは思いつつも好奇心には勝てず、日記を開いてしまった。かなり古いものでシリアや彼がまだエレメンタリー時代のものである。めくっていくうちにこんな記述を見つけた。 『……どうやらシリアが恋をしたらしい。同い年のカルサートの事ばかりをしゃべるようになったのだ。そうかと聞くと真っ赤になって否定する。どうやら図星のようだ。親の目はごまかせるものではない。子供子供と思っていたがどうやらちゃんと育っている。……』 「……」 気恥ずかしい気持ちになったカルサート、とりあえずまた読んでいった。 『………またポリ―がいじめられて帰って来た。シリアのときほどではないが、まだこの街は私達を受け入れてくれないのか。二年前、シリアが｢私、変なの？」と聞いてきたことは一生忘れない。シリアもポリーも、この事が将来に負い目とならなければいいのだが。……』 この時カルサートはぼんやりと理解した。なぜ彼女はあれほど必死になって研究に打ち込んでいたのか。なぜ、彼が彼女を怒鳴った日、あれほど哀しそうな顔をしたのか。単純な事だ。恐れていたのだ。再びこの世界から自分の居場所がなくなってしまうことを。今まで彼女は幾度ともなく苦汁をなめて来たに違いない。そういえば、彼は思い出した。今までたった一度だけ、彼女のあの表情を見た事があると。なんの話題だったかははっきりと覚えていない。でも自分が言った事が原因だったのは覚えている。どういうことだったのは、彼には知る術はない。後にも先にもその一度だけ、気丈な娘はその心の奥を垣間見せたのだった。そして彼は、その意味を汲み取れなかった、いや汲み取る事をしなかった。それだけの事なのだが、シリアにとってみればどうだったのだろうと彼は思う。彼は日記を元あった位置に戻した。 ファーロン地区は非常に閉鎖的な区域である。元は小さな街であったところが市に併合されて区になったので、他からの参入者はほとんどいなかった。そんなところにマッカード一家は引っ越してきたのだ。区民達は嫌悪感や敵意を剥き出しにし、その被害がもっともひどかったのがシリアである。子供は天使であり同時に悪魔でもあるが、シリアにとっては悪魔そのものだった。元来陽気であった彼女はだんだんと口数が少なくなってくる。そんな状態を変えたのが妹のポリ―の存在だった。ポリ―が学校に行くようになり、かつて彼女が受けた仕打ちと同じ事が起こる…はずだったが、シリアは妹をかばった。彼女は、自分を必要としてくれる人がいると思うと勇気が出てきた。そんな時にであったのがカルサートであった。そうして彼女は陽気さを取り戻し、ファーロンの一員になろうとした。なれたかどうかは、もうわからないのだが。 カルサートはまだ少し横になろうかと思い、ベッドの方へ向かう。と、どこからか物音が聞こえた。 寝室から出たシリアは一つのことを考えていた。 「玄関の鍵が壊されてたってことは、あの日は開いてなかったってこと。うちの親がいかに変わりもんだからと言って、鍵をかけずにいることはめったにないからね。じゃあ…一体どこから魔物は入ってきたんだろう？」 もっともな疑問である。他の家が壊されていた以上、魔物は壁を抜けるなどの芸当はできないと考えてよい。しかし彼女の家は… その疑問は庭に出た時に氷解した。庭の片隅にぽっかりと抜け穴が開いているのだ。それは昔シリアが作ったもので、エレメンタリーから逃げるように帰って来た時に逃げ込んだのだった。玄関はよく待ち伏せをされていたから。この穴は彼女の部屋まで続いていて、そして彼女しか知らない穴だった。これを見たとき、彼女は魔物の正体に気づき、自分の仮定が正しいと思った。すなわち、今回の月の魔物は彼女がこの町を憎く思う心が作り出したのだと。涙が出なかった理由もわかった。なんの事はない、直接手を下したわけではないが、自分で殺していたのと同じだったのだ。 「そっか…私、この街がこんなに嫌いだったんだ…『満月の光は諸刃の光』……か。確かにその通りだね…」 自分を縛り付けている枷は壊す事ができた。けれども家族も例外ではない。家族、血の繋がりは無条件でその人を受け入れるが、同時にもっとも強力な枷ともなる。魔物の力はそれすらも断ち切る。苦しめているものと愛するものを同時に失う。だから諸刃なのだ。つぶやいた時、涙が一つぶ転がり落ちた。それを見て彼女は微笑み、恐らく彼女の心が通ったであろう、その穴へと身を躍らせた。穴は暗くじめじめしたいた。 次に光の中へ彼女が現れたのは、自分の部屋だった。今出てきた抜け穴の蓋を閉め彼女は辺りを見まわす。 「私が出ていったときとまったく変わっていない…」 当たり前の事がこんなにもうれしく、もうこの部屋をさわることができる人が彼女以外にいないと思うと心が痛んだ。 「私の…部屋…」 彼女は本棚へ行って一冊本を取り、椅子に座って読み始めた。そこへ扉が開き何かが投げ込まれた。眩い光が溢れ出す。思わずシリアは机に伏せた。 「見たかっ！瞬間発光弾『チカンよさらば(仮)』の威力は…ってシリアぁ？」 「あんたね…」 部屋に飛び込んできたカルサートはあっけに取られたような表情をしている。シリアは目をしばたたかせながら文句を言い始めた。 「物を投げ込む前に誰なのか、ちゃんと確認してちょうだい！だいたいこの家の中にはあんたと私しかいないでしょうが！ちょっとはその御立派な頭で考えてほしいもんだわ！」 「いやだって…お前、庭にいたみたいだったから…」 「抜け穴があるのよ、ぬ・け・あ・な」 「そんなものまでこの家にはあるのか…」 「うるさいな。人の家で発光弾投げた奴にそんなこと言われたくない！」 「発火弾の方が良かったか？」 「なおわるいわぁぁぁ！」 手近にあったヤカンをつかむと、骨まで砕けろとばかりにカルサートの方へ向かって投げつける。間一髪でよけた彼は、壁にめり込んだヤカンを見てぞっとする。 「なぜこんなところにヤカンが…」 「私が好きだからよ」 確かにそこかしこに大小様々なヤカンが、各種取り揃えられている。やっぱりこの家って…カルサートは思ったが、もう口に出すような事はしなかった。 |